青猫工場 〜 Bluecat Engineering 13th 〜

青猫は、分からないことを、考えている。

揮発してしまうから。 ~ by the fuel. ~

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TITLE:
揮発してしまうから。
SUBTITLE:
~ by the fuel. ~
Written by BluecCat

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ガルシア
::いまでは自分の思いどおりのサウンドが、レコーディングスタジオで出せる。自分の頭の中で聞えているサウンドを、スタジオで具現化すればいい。かゆいところをかくようなものだ。五線紙に複雑に音符を書きつけるのも、自分の頭のなかにある音を表現するためなのだけど、非常に不完全なやり方だ。音符では、ピッチとミーターしかわからないので、大変な欠点のある表現方法だ。ひとつひとつの音のかたちみたいなものは、ひどく原始的な方法でしか、書きあらわすことができない。現代の作曲家は、たいてい、自分だけに通用する楽譜の書き方を考案している。
 
 
 

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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』。
 
 ということを、僕は他人に対して思わない。これまでに思ったこともない。これっぽっちも。
 たとえ恋人であろうと、親であろうと、友人であろうと、ましてや不特定多数の他者になど。
 
 なぜなら、僕にとっては(他の多くの人たちにとってもそうであるように観察されるとおり)自分の感じるもの(すなわち感受する対象そのものや、感受した感覚そのもの)や、感じ方(感覚するプロセスや感度の鋭敏さ、あるいは感覚したものの最終的な評価)に至るまで、およそ絶対的なものだと信じるに値していたからだ。
 
 それがより絶対的で不信に値しなかったからこそ、僕は同時に、他者の感覚に対してまったく理解できないことが多かったし、だからこそ他人の感覚を、その当の本人にとっては絶対的で、何があっても不信に値しないものだというように感覚していた。
 当然ではないか。僕にとっての外側は常に僕の理解の外にあり、一方で僕の内側は、常に絶対の信頼を勝ち取るのであるから。
 
 だからこそ僕は子どもの頃から「自分という存在は自分自身の主観の中にしか存在しなくて、他者もまた僕という主観のなかに投影される存在でしかない」と肌で感じていた。
 彼ら/彼女たちはまるで僕とは違うイキモノで、たとえるならば、僕が猫である一方で、彼らがヒトであるかのような、そんな違和感を常に発散しているように感じていた。
 よって僕にとっても、僕以外の人にとっても、おそらく僕を含めたすべての人は、それぞれに自分という主観を持つ存在と、他者という主観を持たない存在の集合によって二分されているのだろうと感じていた。
 それぞれの人が、まったく異なる個性や倫理や道理やありようを持ち、信じ、運用し、それらに組み込まれつつも自己を構築し、それらの価値観と渾然一体となりながら自己を変容させたり、あるいはさせなかったりするという時間的な変化についても、そう考えれば、矛盾なく受け容れることができた。
 当然にそこには自分も受け容れられていたし、他人も同様に受け容れられた。
 
 どんなに価値観が異なっていようと。
 どんなに感受した結果が相反するものであろうと。
 それらはそれぞれの主観のなかでは絶対的な拠りどころなのであって、それは内側からは変容することがあっても、外力によって変化するものではないのだと。
 
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 僕は長らく日記を書かなかった。
 本心を、正直に書き留めるなんて、もうまっぴらごめんだと、そう思う出来事が起こったから。
 具象から表象を勝手に抽出して(すなわちある種の抽象が行われているのだけれど)、それに対する評価をしてあたかも真実のように判断するというのは、ある種の強姦行為だと僕は思っている。
 
 たとえば、薄着で満員の電車という公共交通機関に乗り合わせて何らかの物理的接触をされたという具象から「肌を過剰に露出した相手がこちらに身をすり寄せてきた」という表象だけを勝手に抽出して、「だから相手は自分に対してもっと接触して欲しいのだ」と評価して、それが絶対の真実だと判断するのは、主観だけに支配されている「ちょっと狂ったひと」だと思うし、その判断を基準にして、客観(あるいは他者の主観)を無視したおかしな行為を行うというのは、もはや狂気の沙汰である。
 
 だから僕の日記を見るなり、持ち物を確認するなり、なんでもよいのだけれど、僕でもない他人(こう言ってしまっては身も蓋もないかもしれないが、僕以外のすべての人は、当然に僕ではないから他人なのだ)が、好き勝手に評価したり判断するまではよい(僕も許容できるし、当然のことだと思える)ものの、それを絶対の真実として僕に突きつけてくる場合、僕は困るのだ。
 僕にとっては絶対的に誤ったことであっても、僕以外の誰かにとって「そういう意味」に捉えられることのすべては、もしかしたら「そういう意味」が本来的に(しかも客観的かつ絶対的に)含まれるのではないかと。
 
 強姦した相手が「お前が誘うような恰好をしているからだ」と断定してきた場合の絶望を、たとえば僕は、誰かが僕のペーパーメディアの日記を盗み読みしてその内容を暴露してきたときや、携帯電話の内容を盗み見たり、僕の預金通帳の中身を読みあさってあげつらったりという行為によって感じてきたし、その一方で、被害者ヅラをするよりは加害者ヅラでいつもいたいから、どうにか自分を加害者だと認識しようとやっきになったりしていた。
 
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 被害者ヅラというのは、被害者でもないのに、被害者を装うということだ。
 これも先ほどの「具象から表象を勝手に抽出して、その抽象に対する評価を絶対だと他者に強要すること」のひとつだ。
 だから、自分が被害者だなんて自分では言いたくない。
 正確には思ってもいいし、言ってもいいのだけれど、そのとき自分以外の誰かが「そうでもないんじゃない?」と言ったときに「まぁ、そうかもしれない」とか「そういう考え方もあるよね」というスタンスを、忘れずにいたいのだ。
 
 しかし被害者というのは保護されるべき対象であるという暗黙の了解が存在してしまう。
 それは被害者という言葉の意味が、害を被った者を指しているからだ。
 それは被害を受けているのだ。だから被害をこれ以上受けないように、庇護するべき対象なのだ。
 見捨てるわけにはいかないのだ。いや見捨ててもいいけれど、見捨てるのはちょっと道を外しているのだ。
 少なくともそんな気分にはなる。
 それが被害者という言葉におおよそついて回るセオリィだ。
 したがって、ただ被害を受けた人、という意味で終わらないことが多い。
 
 まして自分が被害者であるというヴェールを自ら被ってしまえば、それは他者の否定を受け容れる余地を失ってしまう。
 同時に加害者というのは断罪されるべき対象であるという暗黙の了解も成り立つ。
 まさに正義は我にあり。
 我は庇護を受けるべき者であり、断罪する権利を持つものである。
 ああ世に出でし怒れる者、復讐の魂よ。
 汝その冷たき炎を以て何者をぞ焼滅せんや。
 
 あな恐ろしや。
 うぬは神の遣いであるか。
 そうでないなら、なにゆえ全能のふりをするのか。
 そうであるなら、なにものの被害など受けようものか。
 ああ恐ろしや。恐ろしや。
 
 しかし自分が加害者であるというレッテルを自分に貼り付ければ、少なくとも全能の復讐者に身をやつすことはできなくなる。
 またそれを否定する(あなたはじつは、加害者ではないのではないか、という)他者を受け容れる心理的余裕も存在するだろう。
 
>>>
 
 自分自身や、その認識に関する領域を、認識外領域も含めてベン図的に感覚するのが通常である僕にとっては、被害者ヅラすることは(仮に本当に被害者である場合でも)より狂気の沙汰に近づくことではあった。
 だから今この瞬間も被害者ヅラをしたくないし、一方で、被害者だと言われれば、まぁそうだよな、という気持ちにはなるし、必然的に捏造してでも加害者意識を持っている方が、健全でいられる気がして、そうこうするうちに僕は壊れた。
「そうだ。あれはある種の強姦だったんだ。(でも果たして本当に?)」の無限ループ。
 
 そして一方で、僕が誰かに対して無意識のうちに加害行為を行っていないかと、僕自身を常に監視する必要があるように思っているし、加害の兆候が現れそうならば、早急に対処して加害行為を回避しなくてはならないと感じ、そうした慎重さを僕自身の行動原理のロジックに、すなわち主観における抽象化や評価について広範な多様性をシミュレートしておいて然るべきだと強迫的に信じているのは変わりがない。
 
 誰かに相談などできるだろうか。
「それはあなたがだらしないからでしょう?」
「それはあなたが不誠実だからでしょう?」
「それはあなたが不完全だからでしょう?」
「それはあなたにも非があったからでしょう?」
 そんな誰かのことばが、頭に勝手に浮かんでくる。
 
 もちろん、僕は、このカラダの貞操をどうこうされたわけではない。
 たかだか、過去の、主観によって書いた文字列に対して勝手な評価を押しつけられただけだ。
「たかだか、その程度の被害でしょう?」
 
 だから僕は、誰にも相談をしない。
 その痛みは、誰にもわからない。
 仮に分かる誰かがいるとしたら、その人は、その人なりの具体的な痛みを抱えていて、だからその痛みを通したとき、その人の主観のなかでのみ共感しているという感覚が発生している、ただそれだけのことだ。
 
 僕は被害者かもしれないし、加害者かもしれない。
 被害者であり加害者であるかもしれない。あるいは、その通りであるかもしれない、かもしれない。
 
 やがて心の中に純粋で完璧で非の打ち所のない漆黒の闇が広がり。
 向かい合わせた鏡の奥から、悪魔がやってくる。
 そいつは、僕の顔をしていて、僕のように振る舞い、僕として生きるだろう。
 ではここにいる僕は、いったい誰なのだろう。
 
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 恐ろしいし、悲しいし、矛盾しているし、被害者ヅラしたくないし、加害者ヅラもしたくない。
 誰でもありたくない。自分ですらありたくない。私なんてどこにもいない。
 そうなのだ、私なんて存在はどこにもいないのですから思い出すどころか、そもそも感覚しないでくださいませませ。
 
 誰かのために何かをするなんて、まっぴらごめんだと心底思ったから、身の回りの人をなるべく遠ざけたし、僕自身を物理的にも、できる範囲で遠い場所に置いた。
 
 それでも、見知らぬ場所で、新しい知り合いができてしまう。
 コンビニで、スーパーで、食堂で、バーで、居酒屋で、アパートの通路で、道路で、すなわち僕の主観がパッケージされたこの肉体の周辺で。
 
 いくぶんか壊れた僕の脳は軽い相貌失認の傾向があり、だから僕は誰のこともあまり記憶しない(少なくとも視覚では)。
 一方で、いくぶんか壊れた僕は誰かにとってちょっとした「いい印象」を与えてしまうことがあるらしくて、本来的にひきこもりで今現在は無職であるにもかかわらず喜怒哀楽のほとんどを笑顔でしか表現できないからなのか、慇懃無礼と一部に不評を買うほどの育ちの良さが滲み出てしまうのか、僕の知らないところで、あるいは僕の目の前で、僕は勝手に好感を持たれて勝手に記憶されてゆく。
 
 ああ、忘れてくれ。知らないでくれ。それは違うすべて虚像だ、あなたの主観にあなたが勝手に投影している虚像なんだ、私はそんなところになんかいないんだ、眠ってなんかいませんのだ。
 ゆえに私なんて存在はどこにもいないのですから思い出すどころか、そもそも感覚しないでくださいませませ。
 私もあなたという存在を記憶しないし、そもそも感覚しないように心がけているのですから。
 
>>>
 
 もちろん僕だって、記憶することはある。
 その人の温度であるとか、肌触りであるとか、色合いであるとか、匂いであるとか、声の響きの湿度であるとか。
 
 でもそれらは、僕の主観のなかでは再生できるけれど、他者に伝達することはなかなかむつかしい。
 だから僕は、言葉を使ってなんとかニュアンスを似せてひねり出して、それを組み合わせて構築してゆく。
 
 ただ、レゴで作ったライオンは、レゴで作ったライオンであって、ホンモノのライオンではないから、走らないし吠えないし眠らないし、肉だって食べない。
 僕にとって、言葉はいつも不自由で、それでも、それを使う以外に、僕が何かを伝える手段はなくて、そのたびに絶望するのではある。
 仮にできあがったレゴのライオンが、どんなに「今にも飛びかかりそう」であっても、飛びかかることはないと知っているから(飛びかかられても困るけれど)。
 
>>>
 
 そんなこんなの諸々を考えるたび、僕は空しくなってしまって、だったら何も考えずに、刹那的な知り合いに関しても、深入りせずにのほほんとやり過ごして、誰の温度も湿度も匂いも色も感覚しないでいればいいやそもそもそんな接触しかねないほどの近距離に物理的に身を置かなければいいやと脳裏でうすらぼんやりと思い巡らせつつ、ベランダで煙草なんかを喫むのであった。
 
 だから僕は、一見難解なことばかりを並べ立てた。
 あほうなひと(あるいは粗暴な主観を私の主観のなかに射精したい狂人)に悩まされて、自分の主観の奥から悪魔が出てくる恐怖に苛まれることを恐れていることをおよそ難解かつ無意味に思えるように書き連ねた。
 だって、僕の主観のなかでは、僕は被害者かもしれないし加害者かもしれなくて、僕以外の誰かは僕による被害者かもしれないし加害者かもしれないから。
 だからその矛盾は、どうしようもなく無意味に収束されて、僕自身の首を絞める。
 厭な苦しみだけれど、苦しいというほどの苦しさでもない。
 無意味に収束されるなかで、僕は首であり紐が僕の首を絞めるように僕の首もまたその紐を絞めるのだ。
 苦しみの感覚も、厭だという感情も、無意味に収束されるなかで意味を失って同化してしまう。
 どうかしてしまう。
 僕が苦しいとしたら、それは紐が苦しいからだし、紐が苦しいのだとしたらそれは僕が苦しいからだろう。
 すると僕は紐だろうか。紐か。紐だったのか。猫ではないのか。
 
 なんということだろう。
 紐に主観が存在するなんて、僕には想像もできなかったことだ。
 しかし僕が紐だったとするならば、紐であるところの僕には主観が存在し、紐によって想像された僕という紐の主観による想像の中での僕の首の紐だ。
 ああだめだ悪魔がやってくる。
 
>>>
 
『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 そんな薄気味悪いことを、だから僕は思えない。
 
 僕以外のおよそほとんどのひとには、比較的まっとうな主観があると信じたいし、比較的まともな理性が存在すると信じている。
 彼ら/彼女たちの多くは、まさか「自分が紐だ」なんてことは考えないだろう。
「自分は自分だ」と思っているだろう。猫だとも思わないだろう。
「我思うゆえに我あり」とは思っても「我思うゆえに紐」とは思わないだろう。
 自分の表現するものが、自分の思うものが、感覚するすべてが、抽象のなれの果ての木偶人形だとは思わないだろう。
 それがSNSのコンテンツだろうと、日々の記録だろうと、晩ごはんの料理だろうと、恋文だろうと、自己イメージだろうと、両親を描いたクレヨン画だろうと、夏休みの自由研究という名の不自由研究のレポートだろうと何だろうと。
 
 それらすべて、自分の目に映る全てや映らない全てがいっしょくたに意味を失ってしまって、たとえば綺麗な絵の具をつぎつぎ混ぜ合わせていったらとんでもない色になってしまうようなショッキングな無感動に塗り込められてしまうところまで思い描いて、ベランダから飛び出してしまいたくなったりするものの、そういうときはだいたい僕はのんびりぼんやりと外を眺めているだけに留まりつつ、その僕の肩をかすめるようにして誰かがベランダから飛び立ってゆく。
 
「ああ。あいつはいいな」
 と僕は思う。
 
 それはどっちの僕なのか、もう僕には分からない。
 
 鏡から出てきた方の僕なのか。
 鏡から出てくる前からいた方の僕なのか。
 
 どっちの僕が飛び立ったのか。
 どっちの僕が眺めているのか。
 
>>>
 
『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 だからもし、僕がいる場合には僕以外が僕であろうし、僕がいない場合には、僕以外が僕であろうと思う。
 
 僕の抱える痛みは、だから痛みですらなくて。なんだったら別の、どうでもいいような、いいかげんでデタラメで下らない名前に置き換えたって変わらない。代わらない。
 なぜなら僕は紐であり、僕であり、猫でなくて猫であるところの紐でありつつ僕でないのだ。
 
 たとえるならそれは僕のぱっちょんぱ。
(ぱっちょんぱ、というのは、まぁ、僕と妹と死んだ父上しか知らない名詞なのではあるけれど)
 その「ぱっちょんぱ」は「ぱっちょんぱ」であり、これまでの理屈に従って考えれば僕の首を絞めるものの具現であり、すなわち僕が首によって絞める対象であり、すなわち僕であり僕以外である。
 自身がまさかの「ぱっちょんぱ」にまでなろうとは。
 
>>>
 
 嗚呼だから誰かが私を殺せばいい。
 私が私をいくら殺しても鏡の奥から別の私がやって来るから。
 だから誰かが私を殺せばその誰かの皮を喰い破って私が出てくるのだろうから。
 だから私が誰かを殺せばその誰かが私の皮を喰い破って出てくるのだろうから。
 嗚呼だから私が誰かを殺せばいい。
 
>>>
 
 いやしなくていいそんなことは。
 
 そうだ。
 加害者になる必要なんて、そんなにないのだ。
 
 そんな必要を、僕は信じなくて良かったのだ。
 だから僕は加害者である必要もなく、被害者である必要もないのだ。
 
 だから僕は加害者になる必要もなく、被害者になる必要もないのだ。
 
 ただ淡々と憎もう。
 ただ淡々と復讐しよう。
 
 誰にだ?
 それは私に、ということだろう。
 
 そうだ。
 憎しみは憎しみ以外でもあるわけだから。
 復讐は復讐以外でもあるわけだから。
 
 だから憎もう。
 だから復讐しよう。
 ありとあらゆる熱量をそこに注ぎ込もう。
 いや面倒だからそんなことはやめよう。
 
>>>
 
『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 嗚呼、彼ら/彼女たちは、なぜそうまでして他者である私/私以外に自身のエゴを射精したがるのだろう。
 その特殊性まで含めて? 含めて?
 
 なぜそんな強要を受けなくてはいけないのだろう。
 拒否する余地すら与えられずに。
 ああ、もちろん。
 
 私は悲鳴を上げなかった。
 私は拒否をしなかった。
 私は抵抗しなかった。
 私は。
 
 だからそれらを受け容れることにしたのか?
 だからそれらを許可したことになるのか?
 だからそれらに荷担したことになるのか?
 だからそれらは私の望んだことなのか?
 
 それがどんな理由であれ、私が声を上げなかっただけで?
 それがどんな原理であれ、私が抵抗しなかっただけで?
 それがどんな時空であれ、私が拒否しなかっただけで?
 
 だからせめて、私はそれらを他者に望まなくてもいいのではないのか。
 だから私は、誰かに理解を強要したり、自分自身を他人の主観のなかに射精したいと思わなくてもいいのではないか。
 そもそもそんな欲求を捨ててもいいのではないか。
 そもそもそんな欲求を持っているのか。
 いないのかもしれない。
 いるのかもしれない。
 いない上でいるのかもしれないし、いる上でいないのかもしれないかもしれないし。
 
 いや。
 鈍感ばかりに思えるから、そんな欲求が叶うなんて理想は、ずいぶん昔に失ってしまった。
 しかしその愚鈍は、私以外だけなのか。
 その愚鈍は、私も含めてなのではないのか。
 私の愚鈍はどれなのか。
 うどんなのか。
 白いのか。白濁か。透明感があるのか。少々黄色がかっていることもあるのか。
 うどんか。うどんなのか。うどん以外なのか。
 
 いや。
 ことワタクシ自身の主観に関していえば、ワタクシ以外のすべては鈍感であり愚鈍だ。
 だから、私は、私を理解してもらいたいという欲求を持たなかった。
 私以外はそれに値しなかった。
 そして私自身にさえ、私を理解することは、およそ困難だった。
 なぜなら私は私であるはずなのに私を逸脱してゆくから。
 考えれば考えるほど、私は私以外のもの(たとえば紐、もしくは猫、あるいはおよそ私以外のすべて)になってしまうから。
 
 それを私の特殊性と考えるならば、私の特殊性とは、私以外を私に含む特殊性であり、そんなものは社会的概念を持つものならば誰でも持っている普遍的な一般性といえるだろう。
 だからきっとみんな、平然としてまっとうなヒトみたいな顔をしつつも毎晩、逸脱しているのだ。
 私は私であり、かつ私以外である、なんて思っているのだ。毎晩。
 
>>>
 
『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
>>>
 
『それゆえ私は一般なので、その一般性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
>>>
 
『それゆえ私は一般なので、その一般性も含めて私を「わたし」として認められているものだし、それは理解されているものだし、そうしたことも込みにした「わたし」はきちんと受け容れられている』
 
>>>
 
『それゆえ私は一般なので、私は「わたし」として認められているものだし、私は一般として受け容れられている』
 
>>>
 
『それゆえ私は一般なので、私は「わたし」として認められている』
 
 私にも。私以外にも。
 私の正気と、私の狂気とともに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 文頭の引用は、
 
「Ⅰ 新しい生き方を目ざして」(p.98-99)
From「自分の生き方をさがしている人のために」
 
(著作:ジェリー・ガルシア+チャールズ・ライク / 発行:草思社
 
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Cat-Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ--ひとになったゆめをみる-:-言葉の毛糸玉-:-偏光アンソロジィ-
 
 
 
 
 
//[EOF]

5年くらい前の間接的DV的な恋人的について。

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TITLE:
5年くらい前の間接的DV的な恋人的について。
 
Written by BlueCat

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//[Body]
 
 5年ほどまえに付き合っていた恋人が、間接的DVを行う程度にはビョーキだったなぁ、ということを最近ようやく認識しはじめた。洗脳って恐ろしい。
 
 とくに僕は、悩みや困ったことがあった場合、誰にも相談しない傾向がある。
 そりゃそうだろう。
 7歳くらいから半ば独り暮らし。23歳から完全に独り暮らしをしている。
 学校でいじめられようが、性的な悩みを抱えようが、お金がなくて水道まで止められようが、自分の力だけでどうにかするしかないと思っていたし、思っているし、その上でなんとか解決して生きてきた。
 
 他人に頼られれば、適当に対応するが、自分が誰かを頼るなんて、そうそう考えない。
 問題というのは、解決力を高めるために与えられたツールだと考えるならば、時間はかかっても、遠回りでも、味方なんていなくても、そして道中が真っ暗闇で、痛くて苦しくても、一日を生きれば、一日分前に進むかもしれない(進まないならば、その停滞もまた前進だと僕は思う)。
 
 僕がその恋人と一緒にいた間に、どのように自分が傷ついたか。
 というのをわざわざ書くことはとても恥ずかしいことだと思っているし、傷ついたという認識をする自分を認めたくない気持ちは当然あるのだけれど、僕の価値観が、現時点では不可逆的に変容してしまっていることを考えるに、僕はねじ曲げられたのだ。という認識をすることにした。そうでないと、僕はもう、もたない。
 
 そして「他者によって傷つけられた」というレッテルによって、恐らく僕は責任を転嫁するだろう。
 転嫁することによって、僕は、その時点で僕の選んだこと、あるいは選べなかったことが「可能な限りのベストを尽くした結果だった」と認識して、従前の価値観を取り戻そうとしている。
 他人を、少しは信用し、あるいは困ったり悲しくなったりしたときに、頼れる程度の許容性というか、強さというか、警戒心を下げた状態というか、そういったありように。
 
 ことほどさよう、僕は僕以外の誰も、信用しないようになっている。
 皆、自分のことで躍起になっている。
 自分のことを誰かにほめそやされたいとか、誰かを自分の目的のために利用しようとか、そんな気持ちで他人と接しているのだという疑念が払拭できない。
 プラスとマイナス、数値的なやりとり、契約や肩書きや、支配や承認や、そういった本来の人間関係とは少々ことなる次元のありようが先に立っていて、それを覆い隠すように、やれ優しさだの、正しさだの、誠実さだのという日本語でカモフラージュしているように思えて仕方ない。
 そのシールをぺろりと剥がすと、中から金だの欲だの体面だの世間体だのといったものが黒光りしながら蠢いているようで、だから人の顔を、以前のように真正面から見ることができない。
 
 だから、スーパで買い物をしていてレジのパートさんに「素敵な声ですね」とか褒められたり、知り合いのガールに「優しい上に博学か!」などと褒められたりしたところで「今日もモテだぜ」とは素直に思えなくなった。
「この人は、ワタシを利用して、いったいナニを満たそうとしているんだろう」と勘ぐってしまう。
 
>>>
 
 もちろん僕は、僕を取り巻いていた人や物事のすべてを正確に書くつもりがない。
 僕は僕に都合よく、記憶を編纂して記述するだろう。
 もうこれ以上、僕が僕を悪者にする必要はないし、その(過去の)命令に従い続ける理由もない。
 まったくもって、びっくりするくらい、人間というのは、誰かにされた仕打ちを、他の誰かに当然としてしまうかもしれないものらしいから、せめてそういう狂った記憶は自分の中で消化しないといけないのだと、10年以上配偶者からDVを受けていた姉に言われた。言われた気がする。気のせいだろうか。気のせいかもしれない。
(いや言われたが)
 
 時系列に従う必要はないと思うが、まず最初にされたのは、携帯電話を覗くことだ。
 僕は恋人はもちろん、友人だろうが何だろうが、パーソナルな領域の物事に、勝手にアクセスすることをしない。
 これは僕にとっては常識だったが、当時の恋人には常識ではなかったらしい。
 僕に恋人が27人いることがその原因だと、きわめて正論のように述べていたけれど、それは後付けの言い訳だ。
 実際に、僕の携帯電話には1000人以上の個人情報が入っている。
 どうやら電話帳の整理を、目の前でさせたかった様子の恋人は、それを見て諦めた。
「電話帳の整理を、目の前でさせる」
 これもちょっとした狂気だと僕は思う。しかしこれも、彼女にとっては常識だったのだろう。
 狂気はさらに続き、最終的には、僕のPCメールのアカウントに送信されるメールを、彼女の携帯電話に転送させられる羽目になった。
 もう完全に狂気であるが、それが必然であると彼女は訴えた。
 僕はもはや抵抗の意思を失っていた。
 
 彼女はある日突然、僕の家の書架を整理した。許可もなく。
 もちろん書籍のサイズでもなく、作者でもなく、上下も関係なく本が収められ、シリーズものは数字もバラバラに入っている様は、とうてい「整頓された書架」には見えなかったろう。
 しかし、僕は書架を誰かに見せるためのものとしては使っていなかった。
 僕が、適切に目的の本を探し、かつ、関連した書籍がうまく動線や視線に組み込まれるように、何年も掛けて出したり仕舞ったりするうちにできあがった序列だった。
 まして年に2度くらいはその配列は見直されていたのだ。
 にもかかわらず、書籍の大きさや、作者や、出版社ごとにこっぴどく整列された書物をして、僕は、目的の本を探すことができなくなった。
 借りてきた本や、読みかけの本(が、だいたい10冊以上あるのがデフォルトだった)を一番目につく場所に置いていたのだけれど、それも分からなくなってしまった。
 書架の中には、過去の日記や、妹とその旦那様と私の写真が収められたアルバム(数少ない私の写真である)などもあった。
 もれなく見られた。
 預金通帳なども転がっていたから、おそらくもれなく見たことだろう。
 
 そのことごとくに、彼女は、もっともらしく「彼女の正論」をぶつけて正当化した。
「それは必要なことだった」と。
 たとえば「書架を整理したのは、本が乱雑に仕舞われていたからだ。そこにルールがあるなんて知らなかったし教えなかった貴方が悪い」
 たとえば「日記を読んでしまったのは悪かったが、書架には鍵も掛けられていなかった。そもそも本を乱雑に放置している貴方が悪い」
 まぁ、一事が万事、こんな調子である。
 
 当時、僕たちは、結婚を前提に同棲を始めたわけなのだけれど、どういうわけか、彼女は「結婚」というカタチを必要以上に急いだ。
 しかし僕はそれまで長いあいだ独りで生きていたわけだし、そもそも僕の家は2人で暮らすには狭いように感じた。
 だから、棲む場所やマネーフローも含めて考えようと提案した。
 特に彼女は、その時点でも横浜に籍がある人で、まずはこちらで仕事を探したりするのがよいのではないかと提案した。そして即座に否定された。理由は分からない。
 何はともあれ、1年以内に結婚せよ、と命ぜられた。そう、時間を明確に区切られた。
 恋人として生活して10年近く経っていればまぁ、そういう準備もできるだろうけれど、僕たちは知り合ってからは何年か経っていたものの、恋人として行動したのは数ヶ月にもなっていなかった頃だと思う。
 その時点で、僕は気が付いてよかったのだ。
 
 彼女は「誰かと結婚をしたい」のであって「僕と暮らしたいわけではない」ということに。
 
>>>
 
 日記に書いてあった僕の過去が原因で(と僕はのちに説明される)、彼女は投薬自殺未遂的なことをした。
 単純に言えば、酒に酔って退行した頭脳で(どういうわけか彼女は、酒に酔うことで退行することを自身に許容していた。単に酒に弱かったのかもしれない)、やけっぱちになって自分のもっている睡眠導入剤をすべて飲み、その辺にある僕の鎮痛消炎剤やら、カフェイン剤やら頭痛薬やら風邪薬やら消臭ビーズやらを飲みまくり、その日、仕事から帰った僕の部屋で意識不明になって横たわっていた。
 
 救急車を呼んで、無事が確認されたのち、彼女は、彼女の以前の恋人の家に暮らすことになった。
 横浜にいた彼女の、横浜にいたであろう元恋人は、どういうわけか、電車で横浜から3時間以上掛かる僕の家からわずか車で20分ほどの場所に住んでいた。
 その理由について、僕は深く詮索する気にもならなかった。
 彼女はよく嘘をついた(そしてよく目が泳いだ)し、よほどねじ伏せられない限りなかなか本音を言わない性格のようであり(彼女の理屈のこね方などがそれを物語っている。誤った出口を全て塞いでやらないと正しい道を伝えられないイキモノは、ネズミと等しいのではないだろうか)、僕は他人をねじ伏せる労力を必要としたことがなかった。
 嘘というのは、嘘をつきたい間くらいは、それと知らぬふりをして受け止めるのもひとつの関係の作り方だと僕は思っている。
 わざわざ理詰めでそれを曝くことの馬鹿馬鹿しさを思うと、どうしてもその労力が無駄に思えるのだった。
 
>>>
 
 実に、彼女と付き合い続けることや、結婚をしようとしていることについて、彼女と僕の間での相談や計画というのはそのほとんどすべてが最初から彼女に否定され続けていた。
 その一方で、どういうわけか、彼女や彼女の両親ではなく、彼女と彼女の以前の勤務先の上司であるとか、彼女の以前の恋人であるとかに、僕はたびたび囲まれて「こうなんじゃないの?」「こうするものじゃないの?」「これが常識じゃない?」と何度も詰問された。
 
 こちらから出向いて、挨拶をして、なぜか説教をされる。
 彼女は第三者としてこちらを見高に観察しているふうであり、説教している人物は、たいていこちらを小馬鹿にしているふうである。ああいうのは目を見れば、いくら僕がアホウでも分かる。
 そのたびに僕は「なにしてるんだろ」と思った。
 
 もちろん第三者である彼ら/彼女たちが、僕の(当時の)恋人の肩を持ち、味方をしたいという気持ちは分かる。
 しかし、その当の相手(僕)を連れてこさせてなんだか分からない話しをするのはどうなのだろう。
 当時の恋人の曰く「私は頭が良くないので、他の人の意見も聞きたいのだ」とか。
 
 元彼の家に数ヶ月滞在したのち、僕の家に戻ってきた彼女はある日、何らかの理由を述べて数日、僕の家から出て行った。
 数日後、電話が掛かってきた。
 ひどく酒に酔っている様子で、ろれつが回っていなかった。
 膝に怪我をしたとか何とか言っていて、もう戻れない、などと言っていた。
 酔うと自制を失うタイプの人だということは分かっていたし、お酒を飲むなら一緒の時に飲もうと言っているのに、一緒の時には飲もうとしなかった。おそらく信用されていなかったのだろうと思う。
 
 その後、彼女は家にやってきて、荷物をまとめて出て行った。
 僕は止めなかったし、止める気もなかった。
 彼女に何があったのかは分からないし、知りたいとも思わなかった。
 知りたいと思って、果たして正しい答えが分かるだろうか。
 体のいい嘘を聞かされるために、興味を持ったり心配をするくらいなら、そんな労力は、お互いに省いた方が身のためだろうと僕は思った。
 
 そして自責の念だけが残った。
 
>>>
 
 とにかく彼女にすれば一事が万事、僕のせいであり、僕だけが原因であり、理由であり、根源だった。
 自殺未遂(というほどでもない複合的な酩酊状態になる)という行為も、元を正せば貴方のせいだ、ということを暗に伝えるための行為である。(子どもの嘘泣きのひどいバージョンみたいなものだ)
 僕はプライバシーだの何だのをさんざんにかき回された挙げ句(妹とおそろいで持っているカエルのぬいぐるみまで捨てさせられ)、私が悪かったです、ということを声に出して言えと何度となく強制され、反省文まで書かされた。
 おそらくそういった諸々が、彼女にとっては正常なことで、常識だったのだろう。
 2人できちんと決めたことは、結局ほとんど、なにもなかった。
 問題があるたび「あなたが悪い」と明に暗に訴えられ、そこにはもっともらしい理由が付いていた。
「あなたは、なぜ、ワタシの思うとおりになろうとしないの」という、暗黙の欲が、いたるところに渦巻いていた。
 その欲のために、関係のないはずの人間につぎつぎ会わされ、彼女は僕とろくに話し合おうとせず、ただ結果だけを求めて突きつけてきた。
 なるほど確かに、その観点で見れば、僕は、彼女が結婚できない原因であり、理由であり、根源であった。
 
>>>
 
「私にはどこにも味方がいない」
 と彼女が僕に言い募ったことがある。
 今でも意味が分からない。
 私の味方になれ、という意味だったのだろうか。
 それとも「私が会わせた無関係の人々のことごとくでさえ、私の味方などではないのだ」と訴えたかったのだろうか。
 分からない。
 
 今の僕は、言える。
「味方なんかどこにもいないし、最初からいない。欲しいなら自分で作るしかないし、作るには自分が誰かの味方になるしかない」と。
 
 もちろん僕は彼女の味方にはならなかった。
 
 なれればいいな、とは思っていた。
 そう。
「なる!」でも「なりたい!」でもなく「なれればいいな」くらいの、力の抜け加減や押しつけがましさのないことが必要なのだ(と、僕は思っているのね)。
 
 でも、病んでいる人間の味方になることは、僕のような、欠けた部分だらけの人間にはできないのだろうし、ついでにはっきり言ってしまえば、アタマの悪い人間と、病んでいる人間を、僕は哀れむことこそできたとしても、好きにはなれない。
 
>>>
 
 以来、僕は、僕に近づいてくる人間が、僕と接する人間が、僕に何かを求めていて、いやむしろ求めてさえいなくて、僕をその人の何かのために利用したくてうずうずしているのではないかと思ってしまって、どうも落ち着かない。
 もちろん、何かを求めるのは勝手だし、利用したければすればいいとも思う。
 求めた何かに応じられるなら、それは素敵なことだし、単に利用したいだけならとっとと帰ってマスかいて寝な! と思う。
 
 出汁ガラのようになった、オカネモチでもない齢40をとうに過ぎたオッサンだ、という見方もできる。
(そっちは着ぐるみで中身は猫なのだが、俗人にはそれが見えないらしい)
 煮出したところで、何が出てくるわけですらないのだ。
 
 家族もいないし、現在は(半年ほども)仕事すらしていない。
 よくこの世の空気を吸っていられるな、と自分でも感心するくらいだ。
 
 ただ、誰かが潜在化している欲の道具に仕立て上げられるのは、顕在化している欲の道具にされるよりよほど面倒で、厄介で、傷が深くなる。そんな気がする。
 
 
 
 
 
 
 

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~ Junction Box ~
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[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
 
 
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女性用下着を着けてみた。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20190810
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
女性用下着を着けてみた。
SUBTITLE:(void)
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 数年前から、トランクスやボクサーパンツを穿かなくなった。
 男性用下着のことである。
 
「下着のことなんて、どうでもいいじゃないか」とも思う。少なくともそういう意見はあると思う。
 それはそれで御説ごもっともである。
 しかしどうだろう「たかが下着、されど下着」なのではないだろうか。
 
 まして「今日は何かありそうなパンツ(いわゆる勝負下着)」あるいは「今日は何かあっても大丈夫な靴下(いわゆる勝負靴下)」を穿いているだけで気持ちが安定し、心地よく過ごせることは諸兄も経験済みのはずである。
 え、ない?
 
>>>
 
 よく考えて欲しい。
 ウィークデイのデイタイムであったとしても。
 ウィークエンドのオフタイムであったとしても。
 誰かの家や会社を訪問する際、お座敷の食事の席、指先に穴の開いた靴下やストッキングで靴を脱いで上がることができるだろうか。
 自宅やオフィスにやってきた宅配業者の人と、落ち着いてやりとりができるだろうか。
 女性はもちろんのこと、男性であっても、よれたりゴムが弱っていたり布地が傷んだ下着や靴下を身に着けていては、いつも心のどこかに後ろめたさを抱え続けることになる。
 ゆえに自分のクローゼットやらタンスやら衣装ケースやらの中身は常に勝負用であるべきであり、下着や靴下の時点で自分の気分が高揚しないようなものならば、あるいは却って気力が萎えて士気が下がるようなものであるならば、身に付けない方がましである。捨ててしまえそんなゴミは!
 その上からどんな服を着ようが、どんな道具や宝飾品を身に付けようが、ハリボテの自身を誤魔化すことなどできないのである。
「えっ、今日? 急に……どうしよう、私。でも、せっかくのチャンスだし!」的な展開が万一あったとしても(今日の下着はダサいから、今から2人で一緒に過ごすなんてできないよぅ! 私のバカ!バカ!)ということにもなりかねない。
 
 まして(熱量をそのままに、いきなり話題がスライドするが)ロードバイクに乗る男性諸氏は、いったいサイクルパンツの下をどうしているのか。
 ノーパンか。
 それはそれで問題はないとも思うが、クッションつきでないジャージのようなものや、ナイロンの薄地のボトムの場合、どうするのだろう。
 トランクス? ボクサーパンツ?
 ノンノン、ムッシュゥ。
 
 だって、サドルと自身の間に揺れる貴方のそれ、もしくはそれに付随したふさふさヘアをどうするのか。
「貴方のそれ」がよしんば無事であったとしても、付随したふさふさヘアを変な具合に挟んでしまって痛い思いをしたことが、貴方はないのか。貴方はないのか。
 仮にその経験があって、かつ「オレ、脱毛しちゃったもんね」あるいは「オレ、剃毛しちゃったもんね」という「もんね」派の人たちは「貴方のそれ及びそれ周辺におけるふさふさヘア問題」についてだけは一応の解決を見ているといえるだろう。
 にもかかわらず、ボクサーパンツやトランクスに特有の「裾の布地が地味に邪魔問題」は解決しない。
 特にトランクスにおいてはタイトなタイプのボトムウェアの中で、変なフォルムを作ってしまう。
 もちろん、そんなタイトなボトムウェアにおいては「貴方のそれ」だって、ときに変なフォルムでその存在感をアッピルしてしまいかねない。いやしているはずだ!
 では、ちょっとしたポタリングごときに都度スポーツサポータを着用して「貴方のそれ及びそれ周辺におけるふさふさヘア問題」を解決するのか。
 
 無論、それは間違った選択ではない。
 そもそもこの問題について、唯一絶対の解答などありはしない。
 いっそロードバイクのために去勢したっていいのだ。
 それだって「貴方のそれ(中略)ア問題」を見事に解決するだろう。
 しかしその一方で、去勢はやり過ぎだ、あるいはやりたくない、という意見だってあるだろう。
 こちらを立てればあちらが立たず、ということはよくあることだ。変な当て字をするなよ。するなよ?
 
 よって平易で汎用性が高く、安全で可逆的、安価で全方位的に隙のない対策というものが求められるわけである。
 第一、一枚1000円とかするスポーツサポータを、週末の数時間しか走らない自転車のためだけに何枚も買うのは少々気が引ける。
 だからといって普段使いにするには、色気がないのですよな、あれ。
 
 そこで僕は、ビキニタイプの男性用ショーツを見かけては買い、見かけては買っていた。
 前側に「貴方やオレのそれやこれ」取出し用合わせ布などないものが至高である。
 あの布は邪魔であり、存在自体が稚拙であり、また稚拙な己を証明するものでもある。
 稚拙な「貴方やオ(中略)れ」であるからこそ、あの二重布に意味が見出されてしまう。存在価値が生まれてしまう。
 
 否。断じて否。
 否定せよ、その存在を。
 否定せよ、その必要性を。
 否定せよ、己が未熟を、あるいは衰退を。
(あるいはトイレに籠もって独りで訓練しな!)
 ゆえに、見た目にも綺麗で穿いて心地よく、機能美を追求したセクシィさ(奇をてらったケバケバしさなどではなく)と質実堅剛なシックな魅力を発揮する、シンプルでいて奥の深い男性用ショーツを、時代は、そう時代は求めているのである。(無駄な強調はわざと)
 
 量販店で1枚580円なら買いである。
 しかし量販店であればこそ、そんなに数の出ない商品を仕入れ/展示/販売する意味を見失うのは必然のこと。
 もはやそんじょそこいらの量販店において、男性用ショーツ(かつシンプルでシックでカッコイイ)は絶滅した。
 トランクスとボクサーパンツ(あと、純白にして「稚拙なる者のためのそれ」を装備した色気のかけらもないブリーフ)が、男性ボトムアンダウェア界を席巻してしまったのだ!!!!
(こんなに「!」を多用するのは、20年ぶりくらいです、はい)
 
>>>
 
 もともと観賞用に女性下着を買ったりすることもあったので、女性下着コーナーに(周囲の皆様に対しては申し訳ないという気持ちを持ちながら)ずけずけ踏み込むことにあまり抵抗のないワタクシですが。
 そもそも自分が着用する(!)目的で物色したことがないので、今回はさすがに緊張しました。
 観賞用は、サイズを考えなくていいので、サイズも含めてデザインが観賞に適していればそれでよいのです。
(飾って眺めることが機能であり目的な訳ですから)
 それに女性用ショーツは裾野が広い(!)。
 装飾性の高い視線誘導特化型のものもあれば、月経等の生理現象に合わせた機能特化型もあれば、アウタにラインを響かせないための隠密特化型もある。ほかにも多分ある。
 今回は「隠密特化傾向の高い、一枚布をぺらっと切って貼ったような」ものを買いました。
 3枚980円。Lサイズ。
 穿いてみたら、もう、カンペキ。
 男性用コーナーにないならば、女性用コーナーで探すべきだった。
 そこには僕らの目指すフロンティアが待っていた。
 
 あ、でもあれです。
「貴方のそれ」のサイズ的自己主張が激しい場合、そのような計算をして作られたポケット的な収まりどころは設計に含まれていないので「貴方のそれ」のボリュームが過剰な場合は、あまり美しく見えないかもしれません。
 あと「貴方のそれ」は標準的でも下腹部全般、あるいは全域のボリュームがボーナストラック的にコンテンツ過多の場合も諦めるべきかもしれません。
 高くても用途を満たす男性用ショーツを探すとか、色気もないサポータやブリーフでガマンするとか。
 あと「これは女性用下着だ!」と過剰に意識してしまって、コーフンしちゃうタイプの人も、多分無理でしょう。そもそも女性下着コーナーに踏み込めるとは思えませんが。
 
 いずれにしても気に入った下着を身に付けていれば、そう、身に付けてさえいれば、僕は、少なくとも僕だけは、こう思うことができる。
「今夜、もし急にナニかあっても、あたし大丈夫だぞっ!」と。
 
 まぁ、そんなナニかは、数十年と訪れたことがありませんが、ね。
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -黒猫-
 
[InterMethod]
 
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  -Fashion-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
//EOF

遅めの反抗期は反芻される。 ~ Recognizable recollection.~

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// TimeLine:20190729
// NOTE:[未修正]
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
遅めの反抗期は反芻される。
SUBTITLE:
~ Recognizable recollection.~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 ──知っている。
 
 当たり前のように彼らは。
 必然のように彼女たちは。
 
 こともなげに暗黙のプロトコールでやりとりを交わす。
 
 ──知っている。
 
 僕にはその文字は読めない。
 僕にはその音は聞こえない。
 
 その暗黙の了解も。
 その常識然とした慣習も。
 
 どんなに目を凝らしても。
 どんなに耳を澄ましても。
 
 言葉に尽くしても、肌から鼓動を触れても。
 
 ──分からない。
 
 どうしてすべてに通用すると確信しているのだろう。
 なぜ疑問にさえ思わないのだろう。
 
 どうして皆が知っていることになっているのだろう。
 なぜ同じ事を感じるものだとされているのだろう。
 
>>>
 
190729
 
 体調が戻ってきたようで、それも手伝って、少々盃を重ねる。
 40過ぎの2人の男が、カウンターに置かれたノートPCでYoutubeを観ながら笑いあうという不思議。
 僕は20代の半ばから独りに慣れてしまったけれど、ほんとうに友達の家みたいな場所に、ふいに遊びに行ってしまう。
 10代の頃、溜まり場になっていた自分の家がそこにあるような気持ちになってしまって、そこにホストではなくゲストとして遊びに行く二重映しの時間に、追憶と遊びを、時間の経過を、感じてしまう。
 僕はTVを観ない(アンテナケーブルを持っていない)し、LINEをはじめSNSも利用しない、山奥の猟師のような人間なのでときどき人と話すのは重要なことでもある。
 
 眠ったのが5時頃だったと思うが9時に起きて10時から銀行を回る。
 僕は現在(数ヶ月にわたり)無職で、直近の勤務先で雇用保険にさえ加入していなかったため、収入は一切ないものの、支出は定期的に発生する。当然である。ために銀行を回る必要もときどきには発生する。
 
 身体が少しずつ回復しているので、リハビリも兼ねて自転車で行く。
 ひと月ほど前は、多少回復したと思っても走っている途中に具合が悪くなったり、目的地で貧血を起こしたりしていたので、体調が悪くなる前までには帰ろうと思って、裏通りをあちこち回る。
 いかんせん、幹線道路はロードバイクでは走る場所がないし病み上がりで速度を出せば間違いなく体調を崩す。
 といって歩道は(自転車道帯か設定されているものの)路面が悪い。
 
 いろいろな建物(一般住宅です。外側だけですが勝手に観察してすみません)や植え込みの花など(勝手に観察してすみません)を見て回る。
 ハードオフを目的地として到着するが、アコースティックギターの6弦が単品売りされていないので(前に見た気がしたのだが、ずいぶん前だったのかもしれない)諦めて帰途に。
 最近は6弦だけがばつんばつん切れる。
 だいたい3ヶ月で、練習中に「ぶつ!」となる。
 以前は総取替えしていたのだが、かなりの頻度なので「もう6弦だけでいいんじゃないかな」的な気分になった次第。
 どこかのまともな楽器屋で買おう。
 
 帰宅してから水を浴びたりカフェラテを飲んで英気を養う。
 
>>>
 
 ちなみに「英気を養いましょう」なんて容易く人は言うけれど「英気」を辞書で調べたら簡単に口に出せるようなものではない気がする。少なくとも僕は自分に対して使うことはできない(いま使ったが)。
 まぁ「並の人より優れた才気や気性」から転じて、「鋭気」の意味と混同されたのかもしれない。
 しかし文語の使用例をざっと思い出しても「英気」は養われている様子だが、「鋭気」を養う人はほとんどいない。ちょっとしたネグレクト状態である。
 あれか。敬語的に空気を読んでいるパターンか。
 もっとも昨今は「神」があちこちに現れるくらいだから、人並み外れた才能の持ち主も過ぎるほどたくさんいるのかもしれない。
 救世主がたくさんいると、むしろ惨劇になる気はするものの。
 
>>>
 
 自動車に乗って食材を買いに。
 とうふを4丁ほど買い、鶏胸肉3枚、それからオクラを大量に買う。
 夏になるとオクラをやたらとカラダが欲するのである。
「アタシ、もうガマンできなーい!」と思ったので、大量に買う。
 帰宅して、オクラは煮浸しに。
 普段は揚げ煮浸しなのだが、茄子がまだ高くて買う気にならなかったので、オクラだけ(大量に)下ごしらえしてざっくり茹でて、煮汁に放り込んでさっと火入れしてだいたい冷めればできあがりである。
 
 夕刻、Kさんから電話が来てだいたい2時間半ほどだらだらと話す。
 なぜかスーパーで買い物をして帰宅して料理して食べるところまでも会話し続けることが多い(一緒に買い物をすることも未だにある)ので、なんだか不思議である。
 そもそも買い物や料理をする男性が僕の周りには少なかったのかもしれない。
 
 3時頃まで目が冴えていたので本など読んでいたが、集中が途切れて間もなく、気絶するように眠っていた。
 
 
 
 
 

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~ Junction Box ~
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[ Cross Link ]
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[Engineer]
 
[InterMethod]
 
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  -Generator-
 
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[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:衛星軌道でランデブー:言葉の毛糸玉
 
 
 
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ひきこもりがたのしい。 ~ I love lonely days. ~

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20190728
// NOTE:[未修正]
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ひきこもりがたのしい。
SUBTITLE:
~ I love lonely days. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
190727
 
 ひきこもりが楽しい。
 まぁ、その……なんというか、若干、若干ですよ、後ろめたい気持ちがないわけではないのですが。
 まぁでも、主観ビジョン的に、つまりは俯瞰しないで、客観視せずに自分の気持ちに正直に申し上げるならば。
 ちょうたのしい!!!
 と思います。
 
>>>
 
 最近、ひとりごとが増えた。
 子どもの頃などは超絶ひとりごと言いだった(会話をする相手が自分しかいない時期が長かった)ので、ひとりごとそのものは慣れているし、自分とのトークは超絶楽しい(……今だけは主観ビジョンだけで生きていきたい)。
 それにひとりごとを言っていないと、話し方を忘れそうなレベルで会話をしていない(いかんせんひきこもりな)ので、まぁ、それは良いことだろうと解釈している。
 自分相手の会話は疲れないし。
 
 まぁ、明日はバイトがあるので一般レベルの接客会話をすることになるとは思うけれど。
 
>>>
 
 今日は5年ぶりくらいのオトモダチから電話がありました。
(ちなみに弟子から週3回は電話が来る。どれだけオレを愛してるんだろう。とても迷惑だ)
(Kさんからは月に2〜4回くらいだろうか。でも1回あたりがすごい長電話。ボクら、男同士ですよね?)
 
 そのオトモダチとは8年くらい前に仕事で付き合いがあって、その仕事も5年ほど前に辞めてしまったので、そこからはもう赤の他人ですが。
 仕事で付き合いのあったときも、なぜか夜中に書類を届けに行ったり(自動車で往復3時間くらいかかる)、休日のど真ん中に(諸般の事情と水道局の事情で)水道の開栓に出かけたりしたこともありますが、べつに仕事の相手だとかクライアントだお客さまだといった意識はなく、単純に仕事だと相手の都合に合わせられるかぎりは合わせてしまう(デキるオトコを演じたいときはこちらで日時を指定しますが、だいたい僕はスケジュールを半日くらい空けて仕事をしていたもので、遊ぶ気になると丸一日遊べてしまう)ので、たまたま休日、ガールとデートの約束もなく、どうしてもその時間にプレイしたい! というゲームがあったわけでもなければ、困ってる人は助けとこうか! みたいな気持ちで。安直な、すごく安易な気持ちで、出かけていたものです。
(当時の僕はゲームはオフライン専門でしたから、ゲームに指定された時間を拘束される、なんて概念はありませんでした)
 
 結婚するかも! って言ったのがだいたい5年前だったかなぁ。
 まぁ、お互いオトナですし、仕事の縁は切れるわけですし、彼女(その友人は女性です)は聡明ですし、自動車で片道5時間くらい掛かるような、それはそれは遠い街に引っ越しているようだったので、そこからは暗黙の了解的にまったく連絡を取り合わなかったのですね。
 
 で、久しぶりに電話が来て話をした、というお話し。
 結局、結婚なんかしなかったし別れちまったぜ、なんて話をしました。
 別にオチも何もありません。
 
>>>
 
 一年くらい前だったか。
 鉄瓶で湯を沸かすのにキャパが小さいという現象に気が付きまして。
 というのも、ペットボトルで水を買わなくなったし、浄水器も使わなくなってしまったのです。
 鉄瓶で湯を沸かせば、美味しい水が採れるから。(採れる?)
 
 ところが急須サイズのそれは、最大に水を入れてもせいぜいが1L。
 お茶を飲むにはちょうど良いけれど、料理に使ったり、ポットに溜めたりするにはまったく足りない。
 ので、行きつけの金物屋(隣の隣の街にある)に出かけて勧められた鉄鍋を買ったのです。
 Amazonにも写真がアリマシタワー。
(でも、商品取扱がなくなっているのか、Amazon紹介機能は使えませんでした)
 
 僕が使うと、鉄器はたいてい赤錆が浮くのですが、このサイズだとなおさら大変でした。
 それでも(黒錆付けのため)紅茶を沸かしたり、隣で炒め物をした油がうまく跳ねたりしながら、なんとか使いやすい状態になってきたかなぁ、という感じ。
 だいたい毎日湯を沸かす生活。
 ペットボトルと違ってゴミは出ないし、浄水器と違って水質が劣化することもない。
 水と火と鍋があれば、とりあえず美味い白湯ができあがるので、ありがたい限り。
 
>>>
 
 数年前から、子どもの頃のことが思い出されるようになってきた。
(30代半ばまでは、思い出せないことが多かった)
 思い出すようになったら、自分の父上が、実はちょっと凄かったのではないかと思うようになった、という話はまたいずれ。
 
 
 
 
 
追伸。
 そろそろリンクをちゃんと設定しなくてはと思いつつ、いつもどおり、後回しにしてしまうワタクシなのでした。
(ええ、ええ。Y!ブログ難民ですよ)
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Dish-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
//EOF

夏ポトフ! ~ Pot-au-feu d’ete. ~

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20190720
// NOTE:[未修正]
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
夏ポトフ!
SUBTITLE:
~ Pot-au-feu d’ete. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
190720
 多少体調が良くなる。
 調子が良くなったときに、わっと平常運転をしたり、わっと筋トレをしたりして、ぶり返す。
 そんな2ヶ月を過ごしているから、もう、無理をしない。
 のんびりぼんやり過ごす。
 
>>>
 
 夏ではあるが、夏野菜がまだ高い。
 当然である。お日様がなかなか出なかったのだから。
 
 仕方ないので、手近に手に入る食材を使ってポトフを作る。
 この時期のにんじんはだいたい美味しくないが、ポトフににんじんがないなんて事態は想定できないので買う。
 地場産のちっこいじゃがいもが12個くらい入って130円位なので買う。
 地場算のちっこい玉ねぎも同じくらいの値段なので、買う。
 小さいものは、切らなくて済むから楽しくていい。

レルペの肖像 ~ Statue of Relpeihzt ~

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20160503
// NOTE:[未修正]
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
レルペの肖像
SUBTITLE:
~ Statue of Relpeihzt ~
Written by BlueCat
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 その漂穿柱*1の陰で、息を潜めていた。
 
 ラルソの棄径*2が危険な場所であることは子どもでも知っているし、ペセドガやアムザ扁虫*3がいることも分かっていたから、きちんと対策してきたつもりだった。
 祈祷師のまじないはきちんと作用している──その証に左の肩にこもった熱がときどきうずくのだけれど──し、今は暗くて正確には視認できないけれど、パッセル反応を利用して全身に刻んでもらった蔽覚シェルト譜*4は適切な時間に色と模様を変化させるはずだ。
 もちろん糜爛性の相変ガスを吐射するというラルソ擬属冑翼鹿*5であるとか、なめざりであるとか、伝説や噂の域を出ない生物がいるとはさすがに思っていないが。
 
 にもかかわらず、ここには何かがいて、それがあきらかな意思を持って何かを探していることが、ついさきほどの襲撃で分かった。
 大赤舌のように大きくうねるそれは、しかし、きゃけらきゃけらと大型甲殻扁虫そのもののような音を立てた。それも、捕食しようとその大きなあごを広げたときにだけだ。
 まずもって、音がしない。気配に気が付かなかったのはうかつだったけれど、それにしてもどんな移動方法をしているのかさえ分からなかった。
 
 地面は柔らかい粘土状の部分もあれば、石硝状に硬化している部分もある。濡れている部分も多いから、脚を使って移動する生物は、たいてい音を立てる。
 しかし赤舌だとしたら、そもそもあごなど持っていないし、今頃すでに呑み溶かされているだろう。
 ただ、こんな穴ぐらに赤舌が出ると聞いたことはないから、変異種でもない限りは違うだろう。
 
 間一髪であごの周囲に蠢く触腕をへし折れたことも、身をかわした後ろに漂穿岩があったことも、すぐに身を翻せる体勢にあったことも、ただの幸運でしかなかった。
 走りながら、あちこち突き出た尖石で傷を負ったし、このあたりに含まれている繊恵石*6質のわずかな光だけでは視認できなかった大きな石柱にぶつかったりもしたけれど(そして背嚢から、何かが墜ちた音がしたけれど)、なんとか逃げられたように思う。
 
 音はない。
 だから、こちらも音を立てることはできない。
 繊恵反射ではろくな視界はないものの、大きな影は動いていない。
 アムザ扁虫がときどき岩壁や天井を動いていて、繊恵光があやしく蠢いているように見えるから、慣れないうちは随分気分が悪かったし、不気味であることに変わりはないが、扁虫がこちらに気付いて襲ってくることはない*7
 
 古くから言われるとおり、こういうときは長い時間が経過しているように感じるものだ。
 それにしても、これからどうすればいいだろう。
 ひとまず、周囲の地形はなんとなくだけれど把握できた。
 棄径のこのあたりは、とにかく漂穿岩柱が多いから、その場所と大きさを把握するだけでもずいぶん違う。
 繊恵光の遠近偏差や陰を利用して、だいたいの岩柱の位置と大きさや、天井の高さ、地面の窪みを把握するのだ。
 
 それから手探りで、静かに、背嚢を探る。
 ペスカデア聯木*8の蔦をごえごえの胆液でなめし、アゾダの獣脂に浸しては蒸散凝固させ、ハデアの樹根を焚いて燻してから、アゾダの革とごえごえの硬皮を縫い合わせたそれは、赤舌の酸にも耐え、大嚙付魚の牙も通さないはずなのに。
 
 しばらく探ると、しかし、そして確かに、背嚢にはこぶし大の穴が開いていた。
 幸い、穴の位置はそれほど下の方ではないけれど、そのままにするわけにも行かない。
 身動きせず周囲を窺うと、アムザ扁虫がときどき立てるかたりくかたりくという微かな音しか気配はない。
 それでも明かりを点けるわけにはいかないので、背嚢をそっと外した。
 背後の漂穿岩は繊恵質を含んでいないので、少し離れた岩壁の淡い光でそれを確かめようとしたとき、視界の隅で繊恵光がおおきく遮られ、そしてそれは動いていた。
 
 左の方は比較的すぐに岩壁にぶつかるが、右の方は奥まっていて正確には分からなかった。
 その右手の隅にいると瞬時に判断したが、こちらの体勢がとにかく悪い。
 岩柱を背に、背嚢を両手で前に突きだそうとしている状態で、脚はすぐ立てる状態ではない。
 腕の動きを止めようとしたそこまでの数瞬で、陰が確実に大きく、つまりは近づいていると分かった。それも思ったより速い。
 
 背嚢を引き寄せ、脚を持ち上げつつ上体を倒して左前方に前転した。
 きゃけらぎ、という音を聞きながら(ああ、やっぱりあれか)と思った。
 前転の勢いで身体を立ち上がらせ、瞬間的な繊恵光偏差から周囲の地形を把握しつつ走り始める。
 後ろを振り返ったり、様子を確認している余裕はない。
 背嚢を抱えたまま、左手に迫った岩壁を蹴って右に方向転換したが、着地するまでのわずかな時間で、視認できていなかった岩柱に右肩をしたたかぶつけた。
 体勢を崩したのでそのまま身を丸めて前転する。きゃけきゃけらきゃけけらぎ、と気ちがいじみた音がして、そのとき明らかに、ぞるぞるという、振動のような音が混じっているのを聞いたが、距離や方向を確認している間はないだろう。
 
 ふたたび立ち上がって走り出す。
 穴が上になるように背嚢をたすき掛けにしながら走る。
 岩壁、岩柱、岩柱、窪み、岩柱、岩壁──。
 素早く視界を走査しながら、走る先の光に戸惑う。
 上下の対称な繊恵光が見えた。
 美しさに見とれている場合でもなく、状況が把握できずに一瞬混乱しかけたが、それが水による反射であると分かった。
 
 しかし「ただの」水だろうか。
 全力疾走ではないものの、不意を突かれた形なので、呼吸がすでに苦しい。
 あと数秒で足が水に触れる。
 このまま進むべきか、右手に地面を探すべきか。
 
 直前で踵を返して右手に進もうと考えていたとき、足が宙を踏んだ。
 そこは地面でも水でもなかった。
 
 落下していると気が付いたときにはすでにバランスを崩し、視界は上下が逆になっていた。
 やれやれここまでか、と思う。
 ここまでが自分の力であり、運だったのだ。
 
 背嚢の中に、繊恵光を反射するレルペの肖像が見え、それはいつものように穏やかな微笑みを浮かべていた。
 
 
 
 
 
 

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*1:漂穿柱(ひょうせんちゅう)

*2:棄径(きけい)

*3:アムザ扁虫(アムザへんちゅう)

*4:蔽覚シェルト譜(へいかくシェルトふ)

*5:ラルソ擬属冑翼鹿(ラルソぎぞくちゅうよっか)

*6:繊恵石(せんけいせき):特定の菌類の活動に反応して発光する鉱石

*7:蔽覚シェルト譜による擬態効果か。

*8:聯木(れんぼく)