寂しさと色気とブラックホール。
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TITLE:
寂しさと色気とブラックホール。
SUBTITLE:
~ beautiful blackhole. ~
Written by BlueCat
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230212
朝食のあと、チャイを作る。
今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。
上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。
>>>
チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
答えが分からない。ついでに教えてもらえない。
>>>
正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。
>>>
ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。
文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。
活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。
誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。
抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。
>>>
双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。
身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
だからなおさら手を貸さない。
仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
人間だけそうならないとは思わない。
やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
獲物から逃げず、負け続ければいい。
現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。
孤独の痛み。
朝食のあと、チャイを作る。
今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。
上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。
>>>
チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
答えが分からない。ついでに教えてもらえない。
>>>
正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。
>>>
ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。
文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。
活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。
誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。
抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。
>>>
双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。
身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
だからなおさら手を貸さない。
仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
人間だけそうならないとは思わない。
やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
獲物から逃げず、負け続ければいい。
現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。
孤独の痛み。
失ったものをたしかに失っていると実感する寂寥。
かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
今あるものをあると実感できない無様さ。
そのいずれも。
>>>
そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。
ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。
>>>
図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。
心は鏡だ。
弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。
自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。
ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけれ」とかなんとか言っていたような気もするし。
そのいずれも。
>>>
そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。
ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。
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図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。
心は鏡だ。
弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。
自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。
ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけれ」とかなんとか言っていたような気もするし。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Engineer]
:青猫:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Transistor-
[Object]
-Human-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
:衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
:衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
//EOF