青猫工場 〜 Bluecat Engineering 13th 〜

青猫は、分からないことを、考えている。

筋トレに関するささやかなレポート。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230819
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
筋トレに関するささやかなレポート。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
【筋トレとヒトの身体について】

 今回は旅について、あるいは水着サイレンススズカウマ娘)についてお送りする予定を急遽(かつ大幅に)変更し、筋トレについて書く回。
 誰にも言っていないし、どこにも告知していないから、予定などあってないようなもの。
 予定調和を乱して壊して、それでこそのラケンローである。
 ちなみに以下はすべて僕の経験に基づくものだけれど、僕の体質は多くの人のそれとは異なることも多いので、参考程度に考えて欲しい。

>>>

 僕は30代半ばまで、腹筋などせず背筋だけで生きてきた。
 スーツを着る上で必要なのは腹筋ではなく背筋だったからだ。
 しかしあるとき、浴室でくるぶしを洗おうと膝を胸に付けようとしたとき「うっ」となり、唐突に腹筋を鍛える必要を感じた。
 近年も、ケダモノらしい放蕩な生活を送ったりすると下腹部に脂肪が付く。
 子供の頃から僕が痩せている(太っている父に比して、痩せすぎのためネグレクトや虐待を疑われていた)のは、僕が精製炭水化物を好まない(身体に合わない)ことと、胃腸が弱かったからである。
 それから料理は自分で作る必要があったことも影響したかな。

 脂肪を減らそうと腹筋をすると分かるのだが、だいたいひと月もしないうちに腹筋が付いて(筋肉が多少分厚くなって)、お腹周りが太くなる。
 フィクスすれば(力を入れれば)へこんで見えるが、フレックスすれば(力を抜けば)、むしろ前よりウエスト周りが増大して見える。
 世のガールどもが腹筋をして挫折するのは、なるほどこれでメンタルをやられるのだと納得した次第。

 しかしこれらはそもそもの物性を考えれば必然である。
 脂肪組織とは一朝一夕に付いたり減ったりするわけではない。
 短期間で体型を変えるのは無理がある。


【物理で解決するのは危険だと人類は学んだらしい】
 たとえば太る(太って見える)にしても、食事によって体内に物質を投入したぶん、物理で体積や質量が増大するのは必然で、そうしなければ不自然だということになる。
 同様に短期間で痩せる(痩せて見える)のに手っ取り早い方法が、この「物理で解決」なのだが、動物たる我々がそれをするのは基本的に危険である。
 バブル経済の頃には脂肪吸引なる「物理で解決」の方法も流行したものだが、昨今まったく聞かないことを考えると、まぁ、危険だったのだろうと思える。
 絶食も手っ取り早い「物理で解決」だが、その危険を僕が語る必要もないだろう。


【見栄えの問題ならば】
 僕は過度のルッキズムに毒されているわけではないが、そもそもの虚弱体質と相まって、自身が太っている状態をあまり許容できない。
(恋人はさにあらず。むちむち体型の女の子は、それはそれで素晴らしいのではある。特に感触とか)
 徐々に体重を増やすことに成功したので今は70kg前後あるが、かつては一定の体重に近づくと膝や足首の関節が痛くなり、筋トレで体重を増やすことさえできなかった(脂肪もあまり付かなかったので、体重を増やす手段が他になかった)。

 ところで下腹部の脂肪が気に入らないとなると、一般に腹筋をしてしまうのが人類の常。
 そして腹筋の筋細胞を増大させても短期的に脂肪が減るわけがないので、フレックス状態では太って見えるケースがあるのも上述のとおり。
 ではどうすればウエスト周りが端的にスリムに見えるのか。

 そこで背筋と大臀筋、大胸筋などの筋肉を付けるのだ。肩の筋肉とかもいいだろう。
 太腿の筋肉もいい。
 特に腹部より上部の筋肉を鍛えると、お腹の皮膚が引っ張られてへこむ。
 お腹に力を入れれば細く見えるのは、物理で皮膚が引っ張られるからだ。
 皮膚も短期間で簡単に伸びたり縮んだりはしないので、お腹より上の筋肉が発達すれば、脂肪ごと引き上げるというわけだ。


【トレーニング強度と休閑】
 一部界隈には、細胞が破壊されないと筋細胞は増大しない(=筋肉は付かない)という古い説を未だに信奉している人が少なからずいるようだけれど、低強度でも長時間負荷を掛けることで筋細胞が増大する(=筋肉が付く)らしい。
(参考URL:「マクマスター大学 筋トレ」検索結果

 個人的な経験からいえば、高負荷で短時間のトレーニングと低負荷で長時間のトレーニングでは、前者の方が筋肉痛になりやすい。
 筋肉を増大させるという意味では、この高負荷のトレーニングでも良いと思う。ただし翌日は休閑させるのがポイント。
 1日おきのインターバルの方が体調も良く、筋肉を発達させやすかった。
 一方、気分屋なので、1日休むとさらに翌日も休みたくなる。これを克服するのが大変といえば大変か。

 低負荷のトレーニングの場合は、必然的に有酸素運動になってくるので筋肉を発達させるというよりは、その維持や脂肪の燃焼に役立つ感じだった。
 翌日の寝起きに少し気怠い(起きて活動を始めるとほとんど気付かなくなる)程度の負荷を掛けるのがちょうど良く、ひどい筋肉痛になると(僕の場合は)他の部位の炎症反応が出やすくなる(身体が対応しきれなくなる)ので今も避けている。

 疲れるだけで筋肉が付かないとか、疲れるのに脂肪は減らないという人は、まぁ、長期的に身体をデザインする考えの方がいいと思う。
 一朝一夕に体型を変えるのは「物理で解決する」しかないのだから……。

>>>
【しかし時間は掛かる】

 ワークアウトはそれなりに苦痛ではある。
 しかし普段意識しない(人も少なからずいるであろう)自身の肉体における各部位の感覚を、きちんと感覚するという意味においては座禅や瞑想に近いものがある。時間を掛けても楽しめる余地は十分にあるのだ。
 悟りを開いちゃう筋トレアスリートとか、そういう系なのではないかと思うのだが。

 実際「運動」としてただ動かすより、どういうわけか自身の運動部位の状態に意識を向けている方が運動効率が上がる気がする。
「ああ、熱を持っているな」「負荷が掛かっているけれど痛みはないな」「痛みに近い負荷だからこれは弱くしよう」という調整もしやすいから故障しずらくもなる。

 ただ一般的な人間が地球上で暮らしている以上、1日はおよそ等しく24時間しかない。
 このリソースは絶対なので、ワークアウトに時間を使えば他事に使える時間は減ることになる。
 それから大きな負荷を掛けられない人もいる。
 病中病後などはことにそうだし、ここひと月ほど寝たきり状態に等しい僕もそれに当てはまる。
(体温調節が未だにうまくできないので、筋トレをすると体温を下げられない)

 そういうときはEMSマシンを使う。
 これはインプラント施術を受けたときに思い付いて始めたのだが、なかなか良い。
 最初(特に購入を決断するとき)は、かなり抵抗があった。
 使ったこともないのに(大した効果はないだろう)とか(機械に頼るのはちょっと怠惰に過ぎるのでは)と思っていたのだ。
 ネガティブなイメージがあって躊躇していたが、どうしても身体を動かせないし、一方で療養生活は筋肉が衰える。

 使ってみてどうかといえば、実に良かった。
 フィジカルな運動のように大きな物理負荷を身体に与えずに筋肉(だけ)を動かすことができるし、呼吸を大きく変動させないため過熱もしない(それでも部位や強度によって汗は出るし、呼吸も変動するが)。
 なので身体が不自由な状態や持病のある人、時間のない人には丁度良いのではないかと思う。
 料理やゲームをしながら筋トレができたらこんなに便利なこともないからだ。

>>>

 ここで自分が使っている商品を紹介する流れなのだが、インフルエンサでもないくせにステルスマーケティング的なありように嫌悪感を感じてしまう。が、今回は我慢することにする。何の我慢なんだこれ。
 なぜ紹介するかというと、高いものはたくさんあるし、それらは間違いなく効果があるのだ。
 ただ数万もするようなEMS器具は(余裕のある人はいいが)エントリィで購入するには抵抗があるだろうし、器具と肉体の相性もある。
 だからといってただ安いものを選んで(嘘やん!)と断ぜられるのも辛いところだ。
(経験上、数ヶ月もしないうちに壊れる粗悪品、そもそも効果が見られない安い製品は中国製が多かった)

 そんなわけで僕がいいなと思って今も使っているのは以下の2点である。

 

 

 昔TVで見たことのある商品(笑)。
 腹筋用ベルトとしては廉価な部類で耐久性もまずまず。
 乾電池を使用するのが個人的には少々難を感じる(入れ方も特徴的だ)が、電池の保ちはいい方だと思う。
 純正のジェルパッドはお高く感じる。ランニングコストで利益を生み出そうという、かつてのエプソンのプリンタ方式だろうか。



 驚きの価格。とにかく安いので、その安さで不安になる(笑)。
 残念なことに純正ジェルパックは売っていないのだが、本体の耐久性がそれなりにある(1年以上は使えた)ので、汎用ジェルパッドで利用している。ちなみに2代目。
 価格を(逆の意味で)度外視して考えると、性能は悪くない。むしろこの価格でプログラムされた複数の動作をするので驚く。

 放電ユニットが充電式なのは優位。
 ヒップ用とあるが、腕だろうが太腿だろうが着けられないことはない。衣服の下に着けるのがむつかしいというだけだ。

 とにかく安いので試してみたいEMS初心者にはおすすめの品だ。僕の食費2日分より安いと思う。
 ただ「EMS器具ってこんなに安いのか」と、変な基準を持つのはやめてほしい。この価格できちんと動作する商品が市場にあることが(色々な意味で)どうかしているのだ。


 ちなみにAmazon などで販売されているうち、廉価版もいくつか試したが「ジェルパッド不要」という商品はおよそ通電に不具合が出やすく、ただ痛くなるものが多かったので、ランニングコストは掛かるがジェルパッドを使うものの方が現状は無難だ。
 ジェルパッドは廉価な代用品も多く販売されている。
 厚みや材質に若干の弱みはあるが、純正品にするかどうかは個人の好みだろう。僕は廉価版を一度は試すようにしている。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Ecology-Engineering-Interface-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-
 
[Object]
  -Fashion-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF

寂しさと色気とブラックホール。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230212
// NOTE:Amebaブログと同一内容を転載しているため、本文中のリンク先はAmebaブログになっています。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさと色気とブラックホール
SUBTITLE:
~ beautiful blackhole. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230212

 朝食のあと、チャイを作る。
 今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブナツメグキャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
 以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
 どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。

 上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
 チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
 本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。

>>>

 チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
 答えが分からない。ついでに教えてもらえない。

>>>

 正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
 お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
 そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
 それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。

>>>

 ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。

 文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
 その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
 血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
 言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。

 活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
 もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。

 誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
 劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。

 抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
 持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。

>>>

 双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
 当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。

 身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
 でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
 世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
 だからなおさら手を貸さない。

 仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
 犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
 人間だけそうならないとは思わない。

 やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
 執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
 獲物から逃げず、負け続ければいい。
 現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。

 孤独の痛み。
 失ったものをたしかに失っていると実感する寂寥。
 かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
 失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
 今あるものをあると実感できない無様さ。
 そのいずれも。

>>>

 そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
 そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。

 ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
 外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
 外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
 外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。

>>>

 図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
 ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
 人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。

 心は鏡だ。
 弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
 失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。


 自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
 私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。

 ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
 確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけれ」とかなんとか言っていたような気もするし。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  女と金魚と餌。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF


愛されなかった道具について

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200209
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
愛されなかった道具について
SUBTITLE:
~ Artifacts spirit. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ちびた木べらがある。
 黒ずんで、べたべたしていて、すり減ったへらの部分は、半分以下しか残っていない。
 
 持ち主は、私の介護対象者だった人だ。
 血縁関係上は僕の伯母にあたるが、戸籍を調べると僕の伯母はそれなり以上に人数がいるし、僕は彼女を単なる介護対象者としてしか見ていなかったので、ときどき、機械的にそう呼ぶ。
 
 あるいはそれ以前は、伯母と甥という関係だったのかもしれない。
 でもどうだろう、年に数回、お茶を飲んで世間話をするだけの関係が、甥と伯母の関係だというのなら、僕にとっての伯母は実際の数より数倍も多いことになる。
 
 戸籍上の血縁関係に限っていうのなら、伯母であるかどうかなんていうことは、少なくとも僕にとってはどうでもよいことだったし、事実、僕は親戚づきあいというものをほとんどしない。
 する価値を見出さないからで、いずれこの国でもそれが自然になるだろう。
 もしかしたら、すでになっているかもしれない。
 
 自然界の他の動物を見ると分かるが、関係性を重視するのは、せいぜいが親子と兄弟くらいである。
 祖父/祖母の代まで同時に存える種は限られているし、伯父/伯母と甥/姪で関係性を持つ人間以外の種族を僕は知らない。
 家系図なども含めて、親戚という存在を意識して行動することが、本来は不自然なのだと思う。
 血族というものは単なるメディアであって、その中に位置する個々人とその人格をコンテンツと考えれば、重視すべきはどちらか明白だと思う。
 個人の属する社会や、その視野が狭ければ、すなわち考えが古ければ、メディアが重視される。
 人間の社会は、中身を見定めなくてはいけない段階をとうに過ぎている。
 
>>>
 
 木べらに限らず、伯母たちの(伯母と、その夫が暮らしていた家の)台所は、ほとんどの道具がひどい状態になっている。
 ざる(カランダ)は、なんだかよく分からない皮膜によっていくつかの穴が塞がれ、ステンレスの輝きは完全にくすんでいる。
 まな板(おそらく素麺などの化粧箱のフタだったもの)は、反り返り、漂白剤で灼かれたのか、白い模様を浮かべている。
 僕が持っていった足つきのまな板は、謎の金属腐食で色が染みてしまって、果たしてどこまで削れば消えるのかが分からない。
 ステンの包丁は、塩によってか酸によってか塩素によってか腐食したようで、刃は緑がかった茶褐色になり、その腐食は「なかご」にまで達して膨張させてしまったのか、柄が大きく割れているものばかりだ。
 それ以外にも、いくつかの包丁が、台所の開き戸の箱に、乱雑に放り込まれている。
 おそらく、使わないのに、使えるから捨てずに仕舞っておいたのだろう。
 鍋の多くも、くすんで、あるいは腐食している。
 冷蔵庫の中は、彼女が介護を必要とする数年前から、掃除されたことがない。
 お皿やカップ、アイスペールやカトラリィも多数あるのだけれど、どれもこれもひどい扱いを受けている。
 綺麗に磨かれることなく、塩や酸や塩基(あるいは硫黄によるものもあるかもしれない)によって、赤錆や黒ずみが発生し、陶器や箸もくすんだ汚れが残っている。
 そしてそれでも、伯母は使い続けていた。
 
 死人をとやかく言うつもりはない、しかしその使い方はどうみても「モノを大切にしている」人のそれとは思えない。
 伯母が昔からそういう「道具の使い方」をする人だと知っていたから、僕は彼女の料理には箸をつけたくなかった。
 それどころか箸さえ信用できない状態であったから、割り箸を使わせてもらえる時はせめてもの救いのように感じた。
 
>>>
 
「モノを大事にする」というのは便利な言葉で、ろくに手入れさえしなくても、使い潰れるところまで使えば自動的に壊れるから「最後まで」使い切ったことになる。
 この「使い潰す」ことを「モノを大事にする」ことと勘違いしている人は、仮に使わないものでも「使えるから」という理由で、はしたなく仕舞い込む。少なくともその様子は、僕にとっては「はしたない」行為だ。
 僕の思うところの「モノを大事にする」というのは、正しく使って、きちんと手入れをして、それでも役目を果たせなくなったものは感謝して捨てることだ。
 
 ちびた木べらは、たしかにその小ささが便利なこともあっただろう。
 けれど、それしかない状況を考えるに、より大きなへらが必要な場面からは不便なモノだったはずだ。
 それに気づかない、あるいは気づいていても放置する鈍感さを、僕は哀れに思う。
 使われもせず、研がれもしない、ナイフや包丁たち。柄を直してもらえない刃物たち。
 使うたび、水を切るだけで放置されるカランダやボウル。
 
 彼女にいいように道具にされた道具たちが、僕は不憫でならない。
 だからといって、僕には、もっと手になじんで、ずっと使っている道具たちがあるのだ。
(足つきまな板に関しては、本当に、彼女の家に預けるべきではなかったと今でも後悔している)
 ゆえに、僕は彼ら(あるいは彼女たち)を次々処分する。
 
 おそらく、彼女は自分が「モノを大事にしている」と自負し、あるいは自慢さえしただろう。していたような気もする。
 私の鉄瓶をして「貴方やけにいいモノを持っているけれど、それは分不相応ではないの?」といった意味のことを言ってきたこともある。
 僕はペットボトルで水を買うことをやめ、浄水器を使うこともやめたのだ。
 水をボトルに詰めて輸送したり、浄水ユニットを製造するコストの代わりに、湯沸かしするコストを使っているだけだ。
 でも、伯母はそういう視点では、モノを見られないから、僕は鉄瓶を彼女の家から引き上げた。
 
 クローゼットを含めた広いスペースにぱんぱんに詰められた大量の衣服をして彼女は「それほど持っていない」と言っていたけれど、実際、そのうち数着しか身に着けなくなっていたようではある。
 パジャマと数着のスーツしか服を持たない僕にとっては、ちょっと異常な光景ではある。
 
 彼女に使われていたすべての道具を見て思う。
 いずれも、愛されなかった道具なのだと。
 だから僕は彼ら(あるいは彼女たち)を哀れに思う。
 彼女は、彼女自身や彼女にまつわるナニか(少なくとも伴侶ではないと推測する)を大事にするために、道具をないがしろにし続けた。
 どこから付喪神が現れてもおかしくないほど、彼女の家には「愛されなかったモノ」がある。
 裏庭の御稲荷様の社は朽ち始め、中の稲荷様の人形は倒れ、鏡は泥と埃にまみれている。
 屋内に2カ所ある神棚にある札さえ、いつ替えられたものか分からないほど汚れている。
(いずれの鏡も、開かれていないことを祈るばかりであるが、祈ってばかりいるわけにもいかないから、いずれ閉じる予定ではある)
 
>>>
 
 分からない。
 僕には、モノを大事にするという定義が、分からない。
 僕はモノを大事にしているつもりだけれど(たとえばデスクトップコンピュータは、2008年から12年も使い続けている)そのメインテナンスには過度に手を掛けているのかもしれない。
 
 しかし手入れをしなければ、靴も、服も、ナイフも、まな板も、ざるだって、傷んで早くに朽ちてしまう。
 使い潰れるまで使うのも愛情だろう。そして同時に、手入れをするのも愛情だろう。
 
 僕はいくつかの料理店の厨房で、やはりすり減った木べらや、刃が短くなり、あるいは(使いやすく研ぐうちに)変形したナイフや包丁を見てきた。
 それらは削られて、カタチを変えてはいたけれど、あるいは(仕事の道具だから)愛されてはいなかったかもしれないけれど、きちんと手入れをされていた。
 料理人が自分専用のナイフや包丁を持っていれば、それは愛されている道具だと、それでも僕は思ってしまう。
 
 一生使える道具というものを知らず、手入れをしながら共に育て合える道具を知らないことを、僕は貧しいことだと思う。
 そういう意味でいえば、伯母は貧しいまま死んだように思う。
 
 あるいは僕は豊かなのだろうか。
 手入れを許してくれる道具たちを見て思う。
 貧しいか、豊かか、それは分からない。
 でも彼ら(あるいは彼女たち)と共にいられることは、下手な人間といることよりもずっと安心する。
 なにせ道具を使い潰すしか知らない人間は、他人さえ使い潰そうとするからだ。
 それを愛情とは、僕にはとうてい定義できそうにない。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]
  残り続けるカタチ[要修正]
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Derailleur-Diary-Ecology-Eternal-Form-Interface-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 -青猫のひとりごと-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
//EOF

トイレ掃除の話 ~ our rest room. ~

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20191210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
トイレ掃除の話
SUBTITLE:
~ our rest room. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 飲食店で働いていた頃の名残だろう。
 汚れたトイレを見ると耐えられない。汚れたトイレで用を足すなんて考えたくない。
 結果、僕はトイレを掃除するのである。
 
 移動中に訪れたコンビニであろうと。
 オフ会の2次会くらいに寄ったカラオケ屋であろうと。
 最近恋人と同棲を始めたという友人の家であろうと。
 行きつけの吞み屋であろうと。
 僕はトイレを掃除する。
 
 結果として、僕がトイレから出るのは(「大」をしてたの?)というレベルに3を掛けたくらいの時間を要する。
 なぜといって、僕がこうした「アウェイのトイレ」を借用する場合、かなりの頻度で僕はトイレを掃除しているから。
 床が汚れていれば床も、洗面台が汚れていれば洗面台も、掃除しているから。
 
 水、トイレットペーパー、ペーパータオル、ハンディソープ、ラバーカップ、洗浄ブラシ、洗剤。
 だいたいこの程度があれば、完璧に綺麗にすることができる。
 そしてこれらはだいたい、目に付くところに備え付けられている。
 
 たいていひどく汚れているのは、コンビニとカラオケ、それに呑み屋である。
 定期的にトイレ掃除をするスタッフがあまりいないことが多いし、トイレ掃除をしたこともない人間もトイレを利用すると想像する。
 正直これを書いて想像を絶しているのだが、世の中にはトイレ掃除なんてしたことがない(汚しても綺麗にするなんて考えもしない)というオトナが、一定数はいるのである。
 しかしまぁ、そういう人たちはそういう人たちで、僕にとってはどうでもいい。
 トイレ掃除をしたことがあろうとなかろうと、公衆のトイレを掃除する意識のない人が利用し続ける限り、誰かが掃除をするそのときまでトイレは汚くなりつづけるのだ。
 そこには思想も、啓蒙も、理想も、観念も、意識も必要ない。
 他者を非難する必要も、己の行いを得意になって吹聴する必要もない。
 そこにあるのは汚れたトイレと清掃道具、そして自分だ。
 
 密室という小宇宙。
 何者の視線も監視も(多分)ないその空間で、己の心と向き合うのである(座禅か)。
 
>>>
 
 そのようなわけで(どのようなわけで?)僕はトイレを掃除してしまう。
 そこにはさまざまな汚れが付着していることが多いのではあるが、実際に掃除をしてみれば「汚したらすぐに落とせば一番ラクだ」という真理に気が付くだろう。
 換気扇掃除もそうだし、水回りの排水溝掃除もそうだ。
 汚れる前に掃除する。汚れたらすぐ掃除する。
 なんと簡単な事実を、僕は無視して生きているのかと、自問自答する。
 
 もちろん、ここだけの話、恥ずかしながらも(ポッ)、正直に言うと、文句を言いながら掃除をしている。
「汚したらすぐに落とせ(真理)」とか、
「なぜ俺が掃除をしなくてはならないのか(そこに汚れたトイレがあるからだ)」とか、
「トイレを汚してそのままで平気だなんて信じられない(と言うほどでもない)」とか。
 
 そして文句を言いながら(ああ、なんて心が狭いのだろう自分は)と思ったりする。
 だってしたくないなら掃除などしなければいいのだ。
 したくて掃除をしておいて、掃除をしない他人に文句を言っているのは、たいそう滑稽で狭量だとは思わないだろうか。
 
 たしかにたかだか排泄の問題である。
 用を足せればそれでいいのだ。
 道具の良し悪しなんて関係ない、といえばそのとおりかもしれない。
 汚れたトイレだろうと、清潔なトイレだろうと、排泄欲求と排泄行為の前に差はない、という人もいるだろう。
 
 しかし本当にそうだろうか。
 
 不潔で汚れたトイレで用を足すことに、恐怖感や嫌悪感はないだろうか。
 清潔なトイレで用を足すとき、満ち足りた安心感はないだろうか。
「排泄の用を足す」うえで、その両者は自分の精神衛生上になんらの差もないのだろうか。
 
 出せば終わりか。
 出せればそれでいいのかオマエたちは。
 そんな気にもなる。
 
 何でもいいのか、どこでもいいのか、誰でもいいのか。
 そういうオトコなのか。
 そんな台詞も(全然関係ないけれど)思い浮かぶ。
 
 いずれにしても下世話なことである。
 他人の下世話が気になるようになったら、いよいよ下世話であるから、己を省みるのである。
 
 公共のトイレを掃除するのは、そんなちょっとした小宇宙、自省の機会なのである。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Form-Interface-Link-Maintenance-Mechanics-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -おこと教室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
 
 
//EOF

強烈な劣等感と自尊心の持ち主に微笑みかけると怒られるのはなぜか。 ~ The scenery I see sincerely. ~

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20190905
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
強烈な劣等感と自尊心の持ち主に微笑みかけると怒られるのはなぜか。
SUBTITLE:
~ The scenery I see sincerely. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 僕の個人的経験談である。
(もっとも、個人的でない経験はなかなか話すことはできないが)
 
 もともと僕は他者と相対するときに、意識して笑顔で接する。
「あなたと敵対する意思も理由も目的もありませんよ。攻撃的な気分で、いたずらにあなたを傷つけたりはしませんよ」というジェスチュアである。
 面白いことがあるわけでもないけれど、少しだけ、せめて目だけ、あるいは口だけは笑っておく。
 僕にとっては些細な、ただの対人マナーである。
 
 しかし、そうやって笑みかけた相手が、なぜだか激昂するという場面を僕はたびたび経験する。
 彼らが失敗したとき、彼らが僕の説明を理解できないとき、僕に教えを乞うているとき、それでも僕は彼らに微笑みかけていた。
 
 だってそうではないか。
 失敗が一見、致命的であろうとも、リカバリが不可能なレベルの失敗なんてそうあるものではない。何より、失敗の一歩を踏み込んだ勇気を僕は評価する。そして同時に、失敗そのものを畏れ、致命的であると感じる慎重さに畏敬の念の感じる。
 僕による説明を彼らが理解できないのは、僕が適切な(あるいは最適な)説明をしていないだけだから、彼らに責はない。コミュニケーションの一部と考えれば、回数を重ねることで精度を上げる機会を作ることさえできる。
 
>>>
 
 逆に僕が失敗して叱られる立場であったとしても、相手の言っていることを理解した場合には笑顔になってしまう。
 なぜならそれは「自分が失敗した/相手の叱っている内容や説明している理屈の原理が理解できた」という発見と喜びがあるからで、申し訳なさそうな顔をし続けるには適さない感情の変化が発生するからなのである。
「私はあなたの叱っている内容と理屈を理解できました、次からは失敗を起こさないですみます」という感謝や喜びが内部発生しているから必然に笑顔になる。
(おそらく叱られている最中の僕は、なかなかに表情豊かであることだろう)
 
 このときもときどき激昂してくる相手が存在する。
 もう自分のメカニズムを説明することが面倒になってくる。
 彼らには一様に一定のフォーマットがされているかのようで「教示などの行為によって人間関係に上下が発生する(情報伝達の方向性によるバイアスが発生する)とき、それがいずれの立場でも笑顔を作る人間は相手をバカにしている」という文脈が存在するようなのである。
 しかし年齢や社会的/組織的地位、状況的優劣関係なども考えると、人間関係の上下なんてものはそのときそのときでバラバラに意味合いを変える。
 地域の草野球チームに所属していれば、年齢の高さよりも若さの方が意味を持つかもしれない。
 コンピュータの基礎知識などについては、年齢よりは純粋な知識や経験が意味もつだろう。
 より実技性をもつ工作や料理といった技術は、知識や経験だけでなく、センスも重要になってくる。
 人間関係や抽象概念、複雑系の理解/認識/解析は、年配である方が有利なケースもある(本人がガバガバの馬鹿であることもあるので、一概に人間経験が高いとは限らないけれど)。
 
 だからこそ、僕は相手の目を見て自分の表情をきちんと表現する。
 それまで真面目な顔をしておいて、急に目をそらして笑ったら、それは嘲笑だと思われても仕方ないだろう。
 そうではない。真剣に説明したり、説明されたりするなかで、軸線がポジティブな方向に向かった場合、それは喜んだり感動するに値していると僕には思えるのだ。
 
 失敗した>致命的でない>リカバリをしようとしている>リカバリの手法や成否におけるセオリィが理解できた>リトライする>リカバリに成功する。
 これはポジティブの連続。
 失敗した>致命的である/リカバリをする意思はない/リカバリの手法や成否のセオリィが理解できない/リトライしない>リカバリは失敗する。
 これはネガティブの連鎖。
(ちなみに、ポジティブ連鎖は and で結合する必要があり、ネガティブ連鎖は or 結合で発生するため、ポジティブ連鎖の途中でネガティブ条件が発生すれば、そこでネガティブ連鎖に転落してしまう)
 
>>>
 
 僕における表情が状況に先行しているのかもしれないけれど、激昂するほど異常な現象でもないように僕自身には思える。
 また、この問題には一定の性差意識が潜在していることに最近気が付いた。
 これらの問題は、異性関係においては発生しない(しにくい)ようなのだ。
 同性同士の場合に、相手に対する余計な上下意識が表出する人間がいる。
 異性同士の場合、たとえば自分が失敗し(情報伝達方向によるバイアスが低位に発生し)て相手に笑みかけられても、単純な好意や包容力を感じることができる人間が存在する。
 相手に指導する(情報伝達方向性バイアスが高位に発生する)状況で、相手に笑みかけられれば、単純な好意を感じたり庇護欲を満たされる場合もあるかもしれない。
 
 異性が失敗して、それに対して笑顔で対応する/厳しい口調で詰問しない。
 異性が教えを乞うてきて、それに笑顔でレクチャする。
 これらは比較的齟齬なく受け取られているように認識される。
「男←女」「女←男」であろうと。
 
 この性差によるバイアスが、僕にはそもそも存在していない。
 相手も自分も一個の人間であり、状況において情報伝達方向性バイアスが低位であっても、それだけでその人が無能であるとか、地位が低いとか、価値がないとか、そういうことではない。
 
>>>
 
 日本語には「へりくだる」という言葉がある。
 外国にもそうした概念が存在するかは分からないが、へりくだることは、自分からバイアスを掛けて低位に位置づけする行為である。
 言葉だけでへりくだる人間もいるけれど、自身の立場や認識を正しくへりくだって意識できる人であれば、それは力を使っていることになる。
 相手のほうが優れていることを認識して、自分はそこにはまだ至っていない、その道筋さえ見えないと理解するためにはそれなりの能力が必要で、それを相手に表現する労力も必要である。
 
 この観点から考えると、僕には「へりくだり」が足りない。
 あるいは道筋が見えた時点で、リカバリの結果を作る前にポジティブな反応を示してしまうために、バイアスの低位側からの表現として違和感を発生させるのかもしれない。
 
 ただ、僕はそこには意味を見いだせない。
 その場での目的は、僕や彼ら(あるいは彼女たち)の人間性を確認し合う「仲良しゲーム」をすることではないからだ。
 知識や経験が正しく伝わること、実効している失敗をリカバリするための技術や、再発を防止するための大局的なセオリィなどを理解することが、何よりも重要なことなのだ。
 
 まして正しくリカバリするためのポジティブ連鎖が起こるためには、ひとつひとつのステップでもれなく成功する必要さえある。余計なことに構う余地などあるのだろうか。
 だから僕は自身の(つまりは相手の)情報伝達方向性バイアスが、高位であろうと低位であろうと、そこに意味を見出さない。それは情報伝達が行われる方向性(高位から低位に向かって流れる)を示しているだけで、高位だからエライのではない。
 
>>>
 
 川でたとえれば、上流から下流に向かって水は流れるけれど、上流が偉いわけではない。単純に標高が高いだけである。
 高い場所だから色々なものが見えるわけである。低い場所だから見えないわけである。
 だから高い場所に来られるように、道筋としての水を流す。
 流れた水を辿ってくれば、高い場所に来られるかもしれない。
 
 わざわざ自分から転げ落ちて、水を流してもらうことを乞う理屈は(人間関係の確認や強化が目的ではなく、問題解決が目的であるならば)無意味だし、無駄である。
 
 問題解決においては、1)情報伝達バイパスが生成され、2)適切な情報が生成され、3)情報が受け止められ、4)問題解決の行為が実行される、というステップが必要になる。
 この前段階で、0)情報伝達方向性バイアスが確認される、ことになる。
 
 たとえば相手が人間ではなくて、インターネットや書物であることもあある。
 その場合でも、情報伝達方向性バイアスは発生する。発信する側と受け取る側が、そこにあるからだ。これを逆にしてはいけないのだ。
 たしかにそこに上下性は存在する。
 しかし大事なことは、上下の関係性を確認/強化することではなくて、情報が伝達されることなのだ。
 まして性差を持ち込むようなことだろうか。
 
 あるいは複合的に、問題解決と同時に人間関係の確認や強化を行いたいのだとして、それはそれで構わないとは思う。僕が笑顔で相手に接しているのは、単純に人間関係の確認と強化のためだからだ。
 ただ、そこでキレるような人間にそこまでの能力があるとは思えないのだ。
 表現の仕方(手法)と表現の内容を混同してしまうような、感情語彙の少ない人間(僕自身がそうである)同士が、齟齬のあるコミュニケーションによって人間関係を確認したりはできないのだ。
 
>>>
 
 そしてスタートに立ち返って、ひとつひとつのステップが正しく成功することを(人間関係の上下を無視して)喜んでも、それをして(上下関係を逆転されたと)反感を感じる人間は存在する。
 
 彼らにとっては、情報伝達方向性バイアスの低位は、人間関係性の低位を意味している。
 その時点で屈辱を勝手に感じる。劣等感である。僕にはこの感覚は理解できても、わざわざ発生はさせない。
 
 僕にとって情報伝達方向性バイアスの上下は、人間関係の上下を意味しないから。
 川の下流にいる偉人を僕はたくさん知っているし、上流にいるクズを僕はたくさん知っている。
 
 人に限らない。
 川の上流にも、下流にも、玉石混淆の情報が存在する。
 標高の高い場所に行けば下を見下ろせる。
 そこではノイズが極少化された美しい景色が見えるだろう。
 喧噪を離れたからこその風のそよめきや川のせせらぎ鳥のさえずりが聞こえるだろう。
 
 では標高の低い場所の景色はみな醜いだろうか。そんなことはないだろう。
 人の声のすべてが雑音だというわけではない。
 地表にありふれたスズメやカラスの声が醜いわけではない。
 その対象が醜いと自分が感じるのは、それを感じる理由があるからだ。
 
 しかし多くの人間は、その理由を考えない。
「あれは醜い、だから悪だ」というレッテルを貼って終わりである。
 レッテルを貼る人間は、省力型で効率的ではあるが、そこから先に進まないのだとすれば、単なる愚者だ。
 なぜ醜いのか、なぜ醜いと自分が感じるのか。それが大事なことだろう。
 もしかしたらその醜さは、単に外界に投影された己自身の心に対する憎しみかもしれないのだから。
 
>>>
 
 なぜ高い場所をそこまで優位とし、低い場所をそこまで劣位とするか。
 それはその人の感覚だからとしか言いようがない。
 だいたい過去の生い立ちによるものだけれど、それを分析したり解析して理解してもらうのは僕の仕事ではないし、僕のするべき事でもない。(僕がしてはいけないこと、ではないが)
 もちろん、僕にしたって自身の生い立ちによって「高位を優位とする」ことを知識として理解していても、体感することがほとんどできない(まったくできないわけではないが、することに意味を感じず、それをした結果はだいたいろくなものではない)のではあるが。
 
 僕には劣等感がほとんどまったくといっていいほど、ない。
 それは同時に、優越感がまったくないことでもある。
 それらを(必ずセットになるので)持っていることのヨロコビも分からないではないが、少々病的になってしまう傾向が強いのではないかと、周囲を見回していて、思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 
 
 
 
 
//[EOF]