青猫工場 〜 Bluecat Engineering 13th 〜

青猫は、分からないことを、考えている。

揮発してしまうから。 ~ by the fuel. ~

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// TimeLine:20190902
// NOTE:[未修正]
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TITLE:
揮発してしまうから。
SUBTITLE:
~ by the fuel. ~
Written by BluecCat

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ガルシア
::いまでは自分の思いどおりのサウンドが、レコーディングスタジオで出せる。自分の頭の中で聞えているサウンドを、スタジオで具現化すればいい。かゆいところをかくようなものだ。五線紙に複雑に音符を書きつけるのも、自分の頭のなかにある音を表現するためなのだけど、非常に不完全なやり方だ。音符では、ピッチとミーターしかわからないので、大変な欠点のある表現方法だ。ひとつひとつの音のかたちみたいなものは、ひどく原始的な方法でしか、書きあらわすことができない。現代の作曲家は、たいてい、自分だけに通用する楽譜の書き方を考案している。
 
 
 

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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』。
 
 ということを、僕は他人に対して思わない。これまでに思ったこともない。これっぽっちも。
 たとえ恋人であろうと、親であろうと、友人であろうと、ましてや不特定多数の他者になど。
 
 なぜなら、僕にとっては(他の多くの人たちにとってもそうであるように観察されるとおり)自分の感じるもの(すなわち感受する対象そのものや、感受した感覚そのもの)や、感じ方(感覚するプロセスや感度の鋭敏さ、あるいは感覚したものの最終的な評価)に至るまで、およそ絶対的なものだと信じるに値していたからだ。
 
 それがより絶対的で不信に値しなかったからこそ、僕は同時に、他者の感覚に対してまったく理解できないことが多かったし、だからこそ他人の感覚を、その当の本人にとっては絶対的で、何があっても不信に値しないものだというように感覚していた。
 当然ではないか。僕にとっての外側は常に僕の理解の外にあり、一方で僕の内側は、常に絶対の信頼を勝ち取るのであるから。
 
 だからこそ僕は子どもの頃から「自分という存在は自分自身の主観の中にしか存在しなくて、他者もまた僕という主観のなかに投影される存在でしかない」と肌で感じていた。
 彼ら/彼女たちはまるで僕とは違うイキモノで、たとえるならば、僕が猫である一方で、彼らがヒトであるかのような、そんな違和感を常に発散しているように感じていた。
 よって僕にとっても、僕以外の人にとっても、おそらく僕を含めたすべての人は、それぞれに自分という主観を持つ存在と、他者という主観を持たない存在の集合によって二分されているのだろうと感じていた。
 それぞれの人が、まったく異なる個性や倫理や道理やありようを持ち、信じ、運用し、それらに組み込まれつつも自己を構築し、それらの価値観と渾然一体となりながら自己を変容させたり、あるいはさせなかったりするという時間的な変化についても、そう考えれば、矛盾なく受け容れることができた。
 当然にそこには自分も受け容れられていたし、他人も同様に受け容れられた。
 
 どんなに価値観が異なっていようと。
 どんなに感受した結果が相反するものであろうと。
 それらはそれぞれの主観のなかでは絶対的な拠りどころなのであって、それは内側からは変容することがあっても、外力によって変化するものではないのだと。
 
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 僕は長らく日記を書かなかった。
 本心を、正直に書き留めるなんて、もうまっぴらごめんだと、そう思う出来事が起こったから。
 具象から表象を勝手に抽出して(すなわちある種の抽象が行われているのだけれど)、それに対する評価をしてあたかも真実のように判断するというのは、ある種の強姦行為だと僕は思っている。
 
 たとえば、薄着で満員の電車という公共交通機関に乗り合わせて何らかの物理的接触をされたという具象から「肌を過剰に露出した相手がこちらに身をすり寄せてきた」という表象だけを勝手に抽出して、「だから相手は自分に対してもっと接触して欲しいのだ」と評価して、それが絶対の真実だと判断するのは、主観だけに支配されている「ちょっと狂ったひと」だと思うし、その判断を基準にして、客観(あるいは他者の主観)を無視したおかしな行為を行うというのは、もはや狂気の沙汰である。
 
 だから僕の日記を見るなり、持ち物を確認するなり、なんでもよいのだけれど、僕でもない他人(こう言ってしまっては身も蓋もないかもしれないが、僕以外のすべての人は、当然に僕ではないから他人なのだ)が、好き勝手に評価したり判断するまではよい(僕も許容できるし、当然のことだと思える)ものの、それを絶対の真実として僕に突きつけてくる場合、僕は困るのだ。
 僕にとっては絶対的に誤ったことであっても、僕以外の誰かにとって「そういう意味」に捉えられることのすべては、もしかしたら「そういう意味」が本来的に(しかも客観的かつ絶対的に)含まれるのではないかと。
 
 強姦した相手が「お前が誘うような恰好をしているからだ」と断定してきた場合の絶望を、たとえば僕は、誰かが僕のペーパーメディアの日記を盗み読みしてその内容を暴露してきたときや、携帯電話の内容を盗み見たり、僕の預金通帳の中身を読みあさってあげつらったりという行為によって感じてきたし、その一方で、被害者ヅラをするよりは加害者ヅラでいつもいたいから、どうにか自分を加害者だと認識しようとやっきになったりしていた。
 
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 被害者ヅラというのは、被害者でもないのに、被害者を装うということだ。
 これも先ほどの「具象から表象を勝手に抽出して、その抽象に対する評価を絶対だと他者に強要すること」のひとつだ。
 だから、自分が被害者だなんて自分では言いたくない。
 正確には思ってもいいし、言ってもいいのだけれど、そのとき自分以外の誰かが「そうでもないんじゃない?」と言ったときに「まぁ、そうかもしれない」とか「そういう考え方もあるよね」というスタンスを、忘れずにいたいのだ。
 
 しかし被害者というのは保護されるべき対象であるという暗黙の了解が存在してしまう。
 それは被害者という言葉の意味が、害を被った者を指しているからだ。
 それは被害を受けているのだ。だから被害をこれ以上受けないように、庇護するべき対象なのだ。
 見捨てるわけにはいかないのだ。いや見捨ててもいいけれど、見捨てるのはちょっと道を外しているのだ。
 少なくともそんな気分にはなる。
 それが被害者という言葉におおよそついて回るセオリィだ。
 したがって、ただ被害を受けた人、という意味で終わらないことが多い。
 
 まして自分が被害者であるというヴェールを自ら被ってしまえば、それは他者の否定を受け容れる余地を失ってしまう。
 同時に加害者というのは断罪されるべき対象であるという暗黙の了解も成り立つ。
 まさに正義は我にあり。
 我は庇護を受けるべき者であり、断罪する権利を持つものである。
 ああ世に出でし怒れる者、復讐の魂よ。
 汝その冷たき炎を以て何者をぞ焼滅せんや。
 
 あな恐ろしや。
 うぬは神の遣いであるか。
 そうでないなら、なにゆえ全能のふりをするのか。
 そうであるなら、なにものの被害など受けようものか。
 ああ恐ろしや。恐ろしや。
 
 しかし自分が加害者であるというレッテルを自分に貼り付ければ、少なくとも全能の復讐者に身をやつすことはできなくなる。
 またそれを否定する(あなたはじつは、加害者ではないのではないか、という)他者を受け容れる心理的余裕も存在するだろう。
 
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 自分自身や、その認識に関する領域を、認識外領域も含めてベン図的に感覚するのが通常である僕にとっては、被害者ヅラすることは(仮に本当に被害者である場合でも)より狂気の沙汰に近づくことではあった。
 だから今この瞬間も被害者ヅラをしたくないし、一方で、被害者だと言われれば、まぁそうだよな、という気持ちにはなるし、必然的に捏造してでも加害者意識を持っている方が、健全でいられる気がして、そうこうするうちに僕は壊れた。
「そうだ。あれはある種の強姦だったんだ。(でも果たして本当に?)」の無限ループ。
 
 そして一方で、僕が誰かに対して無意識のうちに加害行為を行っていないかと、僕自身を常に監視する必要があるように思っているし、加害の兆候が現れそうならば、早急に対処して加害行為を回避しなくてはならないと感じ、そうした慎重さを僕自身の行動原理のロジックに、すなわち主観における抽象化や評価について広範な多様性をシミュレートしておいて然るべきだと強迫的に信じているのは変わりがない。
 
 誰かに相談などできるだろうか。
「それはあなたがだらしないからでしょう?」
「それはあなたが不誠実だからでしょう?」
「それはあなたが不完全だからでしょう?」
「それはあなたにも非があったからでしょう?」
 そんな誰かのことばが、頭に勝手に浮かんでくる。
 
 もちろん、僕は、このカラダの貞操をどうこうされたわけではない。
 たかだか、過去の、主観によって書いた文字列に対して勝手な評価を押しつけられただけだ。
「たかだか、その程度の被害でしょう?」
 
 だから僕は、誰にも相談をしない。
 その痛みは、誰にもわからない。
 仮に分かる誰かがいるとしたら、その人は、その人なりの具体的な痛みを抱えていて、だからその痛みを通したとき、その人の主観のなかでのみ共感しているという感覚が発生している、ただそれだけのことだ。
 
 僕は被害者かもしれないし、加害者かもしれない。
 被害者であり加害者であるかもしれない。あるいは、その通りであるかもしれない、かもしれない。
 
 やがて心の中に純粋で完璧で非の打ち所のない漆黒の闇が広がり。
 向かい合わせた鏡の奥から、悪魔がやってくる。
 そいつは、僕の顔をしていて、僕のように振る舞い、僕として生きるだろう。
 ではここにいる僕は、いったい誰なのだろう。
 
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 恐ろしいし、悲しいし、矛盾しているし、被害者ヅラしたくないし、加害者ヅラもしたくない。
 誰でもありたくない。自分ですらありたくない。私なんてどこにもいない。
 そうなのだ、私なんて存在はどこにもいないのですから思い出すどころか、そもそも感覚しないでくださいませませ。
 
 誰かのために何かをするなんて、まっぴらごめんだと心底思ったから、身の回りの人をなるべく遠ざけたし、僕自身を物理的にも、できる範囲で遠い場所に置いた。
 
 それでも、見知らぬ場所で、新しい知り合いができてしまう。
 コンビニで、スーパーで、食堂で、バーで、居酒屋で、アパートの通路で、道路で、すなわち僕の主観がパッケージされたこの肉体の周辺で。
 
 いくぶんか壊れた僕の脳は軽い相貌失認の傾向があり、だから僕は誰のこともあまり記憶しない(少なくとも視覚では)。
 一方で、いくぶんか壊れた僕は誰かにとってちょっとした「いい印象」を与えてしまうことがあるらしくて、本来的にひきこもりで今現在は無職であるにもかかわらず喜怒哀楽のほとんどを笑顔でしか表現できないからなのか、慇懃無礼と一部に不評を買うほどの育ちの良さが滲み出てしまうのか、僕の知らないところで、あるいは僕の目の前で、僕は勝手に好感を持たれて勝手に記憶されてゆく。
 
 ああ、忘れてくれ。知らないでくれ。それは違うすべて虚像だ、あなたの主観にあなたが勝手に投影している虚像なんだ、私はそんなところになんかいないんだ、眠ってなんかいませんのだ。
 ゆえに私なんて存在はどこにもいないのですから思い出すどころか、そもそも感覚しないでくださいませませ。
 私もあなたという存在を記憶しないし、そもそも感覚しないように心がけているのですから。
 
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 もちろん僕だって、記憶することはある。
 その人の温度であるとか、肌触りであるとか、色合いであるとか、匂いであるとか、声の響きの湿度であるとか。
 
 でもそれらは、僕の主観のなかでは再生できるけれど、他者に伝達することはなかなかむつかしい。
 だから僕は、言葉を使ってなんとかニュアンスを似せてひねり出して、それを組み合わせて構築してゆく。
 
 ただ、レゴで作ったライオンは、レゴで作ったライオンであって、ホンモノのライオンではないから、走らないし吠えないし眠らないし、肉だって食べない。
 僕にとって、言葉はいつも不自由で、それでも、それを使う以外に、僕が何かを伝える手段はなくて、そのたびに絶望するのではある。
 仮にできあがったレゴのライオンが、どんなに「今にも飛びかかりそう」であっても、飛びかかることはないと知っているから(飛びかかられても困るけれど)。
 
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 そんなこんなの諸々を考えるたび、僕は空しくなってしまって、だったら何も考えずに、刹那的な知り合いに関しても、深入りせずにのほほんとやり過ごして、誰の温度も湿度も匂いも色も感覚しないでいればいいやそもそもそんな接触しかねないほどの近距離に物理的に身を置かなければいいやと脳裏でうすらぼんやりと思い巡らせつつ、ベランダで煙草なんかを喫むのであった。
 
 だから僕は、一見難解なことばかりを並べ立てた。
 あほうなひと(あるいは粗暴な主観を私の主観のなかに射精したい狂人)に悩まされて、自分の主観の奥から悪魔が出てくる恐怖に苛まれることを恐れていることをおよそ難解かつ無意味に思えるように書き連ねた。
 だって、僕の主観のなかでは、僕は被害者かもしれないし加害者かもしれなくて、僕以外の誰かは僕による被害者かもしれないし加害者かもしれないから。
 だからその矛盾は、どうしようもなく無意味に収束されて、僕自身の首を絞める。
 厭な苦しみだけれど、苦しいというほどの苦しさでもない。
 無意味に収束されるなかで、僕は首であり紐が僕の首を絞めるように僕の首もまたその紐を絞めるのだ。
 苦しみの感覚も、厭だという感情も、無意味に収束されるなかで意味を失って同化してしまう。
 どうかしてしまう。
 僕が苦しいとしたら、それは紐が苦しいからだし、紐が苦しいのだとしたらそれは僕が苦しいからだろう。
 すると僕は紐だろうか。紐か。紐だったのか。猫ではないのか。
 
 なんということだろう。
 紐に主観が存在するなんて、僕には想像もできなかったことだ。
 しかし僕が紐だったとするならば、紐であるところの僕には主観が存在し、紐によって想像された僕という紐の主観による想像の中での僕の首の紐だ。
 ああだめだ悪魔がやってくる。
 
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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 そんな薄気味悪いことを、だから僕は思えない。
 
 僕以外のおよそほとんどのひとには、比較的まっとうな主観があると信じたいし、比較的まともな理性が存在すると信じている。
 彼ら/彼女たちの多くは、まさか「自分が紐だ」なんてことは考えないだろう。
「自分は自分だ」と思っているだろう。猫だとも思わないだろう。
「我思うゆえに我あり」とは思っても「我思うゆえに紐」とは思わないだろう。
 自分の表現するものが、自分の思うものが、感覚するすべてが、抽象のなれの果ての木偶人形だとは思わないだろう。
 それがSNSのコンテンツだろうと、日々の記録だろうと、晩ごはんの料理だろうと、恋文だろうと、自己イメージだろうと、両親を描いたクレヨン画だろうと、夏休みの自由研究という名の不自由研究のレポートだろうと何だろうと。
 
 それらすべて、自分の目に映る全てや映らない全てがいっしょくたに意味を失ってしまって、たとえば綺麗な絵の具をつぎつぎ混ぜ合わせていったらとんでもない色になってしまうようなショッキングな無感動に塗り込められてしまうところまで思い描いて、ベランダから飛び出してしまいたくなったりするものの、そういうときはだいたい僕はのんびりぼんやりと外を眺めているだけに留まりつつ、その僕の肩をかすめるようにして誰かがベランダから飛び立ってゆく。
 
「ああ。あいつはいいな」
 と僕は思う。
 
 それはどっちの僕なのか、もう僕には分からない。
 
 鏡から出てきた方の僕なのか。
 鏡から出てくる前からいた方の僕なのか。
 
 どっちの僕が飛び立ったのか。
 どっちの僕が眺めているのか。
 
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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 だからもし、僕がいる場合には僕以外が僕であろうし、僕がいない場合には、僕以外が僕であろうと思う。
 
 僕の抱える痛みは、だから痛みですらなくて。なんだったら別の、どうでもいいような、いいかげんでデタラメで下らない名前に置き換えたって変わらない。代わらない。
 なぜなら僕は紐であり、僕であり、猫でなくて猫であるところの紐でありつつ僕でないのだ。
 
 たとえるならそれは僕のぱっちょんぱ。
(ぱっちょんぱ、というのは、まぁ、僕と妹と死んだ父上しか知らない名詞なのではあるけれど)
 その「ぱっちょんぱ」は「ぱっちょんぱ」であり、これまでの理屈に従って考えれば僕の首を絞めるものの具現であり、すなわち僕が首によって絞める対象であり、すなわち僕であり僕以外である。
 自身がまさかの「ぱっちょんぱ」にまでなろうとは。
 
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 嗚呼だから誰かが私を殺せばいい。
 私が私をいくら殺しても鏡の奥から別の私がやって来るから。
 だから誰かが私を殺せばその誰かの皮を喰い破って私が出てくるのだろうから。
 だから私が誰かを殺せばその誰かが私の皮を喰い破って出てくるのだろうから。
 嗚呼だから私が誰かを殺せばいい。
 
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 いやしなくていいそんなことは。
 
 そうだ。
 加害者になる必要なんて、そんなにないのだ。
 
 そんな必要を、僕は信じなくて良かったのだ。
 だから僕は加害者である必要もなく、被害者である必要もないのだ。
 
 だから僕は加害者になる必要もなく、被害者になる必要もないのだ。
 
 ただ淡々と憎もう。
 ただ淡々と復讐しよう。
 
 誰にだ?
 それは私に、ということだろう。
 
 そうだ。
 憎しみは憎しみ以外でもあるわけだから。
 復讐は復讐以外でもあるわけだから。
 
 だから憎もう。
 だから復讐しよう。
 ありとあらゆる熱量をそこに注ぎ込もう。
 いや面倒だからそんなことはやめよう。
 
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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
 嗚呼、彼ら/彼女たちは、なぜそうまでして他者である私/私以外に自身のエゴを射精したがるのだろう。
 その特殊性まで含めて? 含めて?
 
 なぜそんな強要を受けなくてはいけないのだろう。
 拒否する余地すら与えられずに。
 ああ、もちろん。
 
 私は悲鳴を上げなかった。
 私は拒否をしなかった。
 私は抵抗しなかった。
 私は。
 
 だからそれらを受け容れることにしたのか?
 だからそれらを許可したことになるのか?
 だからそれらに荷担したことになるのか?
 だからそれらは私の望んだことなのか?
 
 それがどんな理由であれ、私が声を上げなかっただけで?
 それがどんな原理であれ、私が抵抗しなかっただけで?
 それがどんな時空であれ、私が拒否しなかっただけで?
 
 だからせめて、私はそれらを他者に望まなくてもいいのではないのか。
 だから私は、誰かに理解を強要したり、自分自身を他人の主観のなかに射精したいと思わなくてもいいのではないか。
 そもそもそんな欲求を捨ててもいいのではないか。
 そもそもそんな欲求を持っているのか。
 いないのかもしれない。
 いるのかもしれない。
 いない上でいるのかもしれないし、いる上でいないのかもしれないかもしれないし。
 
 いや。
 鈍感ばかりに思えるから、そんな欲求が叶うなんて理想は、ずいぶん昔に失ってしまった。
 しかしその愚鈍は、私以外だけなのか。
 その愚鈍は、私も含めてなのではないのか。
 私の愚鈍はどれなのか。
 うどんなのか。
 白いのか。白濁か。透明感があるのか。少々黄色がかっていることもあるのか。
 うどんか。うどんなのか。うどん以外なのか。
 
 いや。
 ことワタクシ自身の主観に関していえば、ワタクシ以外のすべては鈍感であり愚鈍だ。
 だから、私は、私を理解してもらいたいという欲求を持たなかった。
 私以外はそれに値しなかった。
 そして私自身にさえ、私を理解することは、およそ困難だった。
 なぜなら私は私であるはずなのに私を逸脱してゆくから。
 考えれば考えるほど、私は私以外のもの(たとえば紐、もしくは猫、あるいはおよそ私以外のすべて)になってしまうから。
 
 それを私の特殊性と考えるならば、私の特殊性とは、私以外を私に含む特殊性であり、そんなものは社会的概念を持つものならば誰でも持っている普遍的な一般性といえるだろう。
 だからきっとみんな、平然としてまっとうなヒトみたいな顔をしつつも毎晩、逸脱しているのだ。
 私は私であり、かつ私以外である、なんて思っているのだ。毎晩。
 
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『それゆえ私はちょっと特殊なので、その特殊性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
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『それゆえ私は一般なので、その一般性も含めて私を「わたし」として認めて欲しいし、それを理解して欲しいし、そうしたことも込みにした「わたし」をきちんと受け容れて欲しい』
 
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『それゆえ私は一般なので、その一般性も含めて私を「わたし」として認められているものだし、それは理解されているものだし、そうしたことも込みにした「わたし」はきちんと受け容れられている』
 
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『それゆえ私は一般なので、私は「わたし」として認められているものだし、私は一般として受け容れられている』
 
>>>
 
『それゆえ私は一般なので、私は「わたし」として認められている』
 
 私にも。私以外にも。
 私の正気と、私の狂気とともに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 文頭の引用は、
 
「Ⅰ 新しい生き方を目ざして」(p.98-99)
From「自分の生き方をさがしている人のために」
 
(著作:ジェリー・ガルシア+チャールズ・ライク / 発行:草思社
 
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
 
[InterMethod]
 
[Module]
 
[Object]
  -Cat-Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ--ひとになったゆめをみる-:-言葉の毛糸玉-:-偏光アンソロジィ-
 
 
 
 
 
//[EOF]