青猫工場 〜 Bluecat Engineering 13th 〜

青猫は、分からないことを、考えている。

強烈な劣等感と自尊心の持ち主に微笑みかけると怒られるのはなぜか。 ~ The scenery I see sincerely. ~

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// TimeLine:20190905
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TITLE:
強烈な劣等感と自尊心の持ち主に微笑みかけると怒られるのはなぜか。
SUBTITLE:
~ The scenery I see sincerely. ~
Written by BlueCat

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 僕の個人的経験談である。
(もっとも、個人的でない経験はなかなか話すことはできないが)
 
 もともと僕は他者と相対するときに、意識して笑顔で接する。
「あなたと敵対する意思も理由も目的もありませんよ。攻撃的な気分で、いたずらにあなたを傷つけたりはしませんよ」というジェスチュアである。
 面白いことがあるわけでもないけれど、少しだけ、せめて目だけ、あるいは口だけは笑っておく。
 僕にとっては些細な、ただの対人マナーである。
 
 しかし、そうやって笑みかけた相手が、なぜだか激昂するという場面を僕はたびたび経験する。
 彼らが失敗したとき、彼らが僕の説明を理解できないとき、僕に教えを乞うているとき、それでも僕は彼らに微笑みかけていた。
 
 だってそうではないか。
 失敗が一見、致命的であろうとも、リカバリが不可能なレベルの失敗なんてそうあるものではない。何より、失敗の一歩を踏み込んだ勇気を僕は評価する。そして同時に、失敗そのものを畏れ、致命的であると感じる慎重さに畏敬の念の感じる。
 僕による説明を彼らが理解できないのは、僕が適切な(あるいは最適な)説明をしていないだけだから、彼らに責はない。コミュニケーションの一部と考えれば、回数を重ねることで精度を上げる機会を作ることさえできる。
 
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 逆に僕が失敗して叱られる立場であったとしても、相手の言っていることを理解した場合には笑顔になってしまう。
 なぜならそれは「自分が失敗した/相手の叱っている内容や説明している理屈の原理が理解できた」という発見と喜びがあるからで、申し訳なさそうな顔をし続けるには適さない感情の変化が発生するからなのである。
「私はあなたの叱っている内容と理屈を理解できました、次からは失敗を起こさないですみます」という感謝や喜びが内部発生しているから必然に笑顔になる。
(おそらく叱られている最中の僕は、なかなかに表情豊かであることだろう)
 
 このときもときどき激昂してくる相手が存在する。
 もう自分のメカニズムを説明することが面倒になってくる。
 彼らには一様に一定のフォーマットがされているかのようで「教示などの行為によって人間関係に上下が発生する(情報伝達の方向性によるバイアスが発生する)とき、それがいずれの立場でも笑顔を作る人間は相手をバカにしている」という文脈が存在するようなのである。
 しかし年齢や社会的/組織的地位、状況的優劣関係なども考えると、人間関係の上下なんてものはそのときそのときでバラバラに意味合いを変える。
 地域の草野球チームに所属していれば、年齢の高さよりも若さの方が意味を持つかもしれない。
 コンピュータの基礎知識などについては、年齢よりは純粋な知識や経験が意味もつだろう。
 より実技性をもつ工作や料理といった技術は、知識や経験だけでなく、センスも重要になってくる。
 人間関係や抽象概念、複雑系の理解/認識/解析は、年配である方が有利なケースもある(本人がガバガバの馬鹿であることもあるので、一概に人間経験が高いとは限らないけれど)。
 
 だからこそ、僕は相手の目を見て自分の表情をきちんと表現する。
 それまで真面目な顔をしておいて、急に目をそらして笑ったら、それは嘲笑だと思われても仕方ないだろう。
 そうではない。真剣に説明したり、説明されたりするなかで、軸線がポジティブな方向に向かった場合、それは喜んだり感動するに値していると僕には思えるのだ。
 
 失敗した>致命的でない>リカバリをしようとしている>リカバリの手法や成否におけるセオリィが理解できた>リトライする>リカバリに成功する。
 これはポジティブの連続。
 失敗した>致命的である/リカバリをする意思はない/リカバリの手法や成否のセオリィが理解できない/リトライしない>リカバリは失敗する。
 これはネガティブの連鎖。
(ちなみに、ポジティブ連鎖は and で結合する必要があり、ネガティブ連鎖は or 結合で発生するため、ポジティブ連鎖の途中でネガティブ条件が発生すれば、そこでネガティブ連鎖に転落してしまう)
 
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 僕における表情が状況に先行しているのかもしれないけれど、激昂するほど異常な現象でもないように僕自身には思える。
 また、この問題には一定の性差意識が潜在していることに最近気が付いた。
 これらの問題は、異性関係においては発生しない(しにくい)ようなのだ。
 同性同士の場合に、相手に対する余計な上下意識が表出する人間がいる。
 異性同士の場合、たとえば自分が失敗し(情報伝達方向によるバイアスが低位に発生し)て相手に笑みかけられても、単純な好意や包容力を感じることができる人間が存在する。
 相手に指導する(情報伝達方向性バイアスが高位に発生する)状況で、相手に笑みかけられれば、単純な好意を感じたり庇護欲を満たされる場合もあるかもしれない。
 
 異性が失敗して、それに対して笑顔で対応する/厳しい口調で詰問しない。
 異性が教えを乞うてきて、それに笑顔でレクチャする。
 これらは比較的齟齬なく受け取られているように認識される。
「男←女」「女←男」であろうと。
 
 この性差によるバイアスが、僕にはそもそも存在していない。
 相手も自分も一個の人間であり、状況において情報伝達方向性バイアスが低位であっても、それだけでその人が無能であるとか、地位が低いとか、価値がないとか、そういうことではない。
 
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 日本語には「へりくだる」という言葉がある。
 外国にもそうした概念が存在するかは分からないが、へりくだることは、自分からバイアスを掛けて低位に位置づけする行為である。
 言葉だけでへりくだる人間もいるけれど、自身の立場や認識を正しくへりくだって意識できる人であれば、それは力を使っていることになる。
 相手のほうが優れていることを認識して、自分はそこにはまだ至っていない、その道筋さえ見えないと理解するためにはそれなりの能力が必要で、それを相手に表現する労力も必要である。
 
 この観点から考えると、僕には「へりくだり」が足りない。
 あるいは道筋が見えた時点で、リカバリの結果を作る前にポジティブな反応を示してしまうために、バイアスの低位側からの表現として違和感を発生させるのかもしれない。
 
 ただ、僕はそこには意味を見いだせない。
 その場での目的は、僕や彼ら(あるいは彼女たち)の人間性を確認し合う「仲良しゲーム」をすることではないからだ。
 知識や経験が正しく伝わること、実効している失敗をリカバリするための技術や、再発を防止するための大局的なセオリィなどを理解することが、何よりも重要なことなのだ。
 
 まして正しくリカバリするためのポジティブ連鎖が起こるためには、ひとつひとつのステップでもれなく成功する必要さえある。余計なことに構う余地などあるのだろうか。
 だから僕は自身の(つまりは相手の)情報伝達方向性バイアスが、高位であろうと低位であろうと、そこに意味を見出さない。それは情報伝達が行われる方向性(高位から低位に向かって流れる)を示しているだけで、高位だからエライのではない。
 
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 川でたとえれば、上流から下流に向かって水は流れるけれど、上流が偉いわけではない。単純に標高が高いだけである。
 高い場所だから色々なものが見えるわけである。低い場所だから見えないわけである。
 だから高い場所に来られるように、道筋としての水を流す。
 流れた水を辿ってくれば、高い場所に来られるかもしれない。
 
 わざわざ自分から転げ落ちて、水を流してもらうことを乞う理屈は(人間関係の確認や強化が目的ではなく、問題解決が目的であるならば)無意味だし、無駄である。
 
 問題解決においては、1)情報伝達バイパスが生成され、2)適切な情報が生成され、3)情報が受け止められ、4)問題解決の行為が実行される、というステップが必要になる。
 この前段階で、0)情報伝達方向性バイアスが確認される、ことになる。
 
 たとえば相手が人間ではなくて、インターネットや書物であることもあある。
 その場合でも、情報伝達方向性バイアスは発生する。発信する側と受け取る側が、そこにあるからだ。これを逆にしてはいけないのだ。
 たしかにそこに上下性は存在する。
 しかし大事なことは、上下の関係性を確認/強化することではなくて、情報が伝達されることなのだ。
 まして性差を持ち込むようなことだろうか。
 
 あるいは複合的に、問題解決と同時に人間関係の確認や強化を行いたいのだとして、それはそれで構わないとは思う。僕が笑顔で相手に接しているのは、単純に人間関係の確認と強化のためだからだ。
 ただ、そこでキレるような人間にそこまでの能力があるとは思えないのだ。
 表現の仕方(手法)と表現の内容を混同してしまうような、感情語彙の少ない人間(僕自身がそうである)同士が、齟齬のあるコミュニケーションによって人間関係を確認したりはできないのだ。
 
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 そしてスタートに立ち返って、ひとつひとつのステップが正しく成功することを(人間関係の上下を無視して)喜んでも、それをして(上下関係を逆転されたと)反感を感じる人間は存在する。
 
 彼らにとっては、情報伝達方向性バイアスの低位は、人間関係性の低位を意味している。
 その時点で屈辱を勝手に感じる。劣等感である。僕にはこの感覚は理解できても、わざわざ発生はさせない。
 
 僕にとって情報伝達方向性バイアスの上下は、人間関係の上下を意味しないから。
 川の下流にいる偉人を僕はたくさん知っているし、上流にいるクズを僕はたくさん知っている。
 
 人に限らない。
 川の上流にも、下流にも、玉石混淆の情報が存在する。
 標高の高い場所に行けば下を見下ろせる。
 そこではノイズが極少化された美しい景色が見えるだろう。
 喧噪を離れたからこその風のそよめきや川のせせらぎ鳥のさえずりが聞こえるだろう。
 
 では標高の低い場所の景色はみな醜いだろうか。そんなことはないだろう。
 人の声のすべてが雑音だというわけではない。
 地表にありふれたスズメやカラスの声が醜いわけではない。
 その対象が醜いと自分が感じるのは、それを感じる理由があるからだ。
 
 しかし多くの人間は、その理由を考えない。
「あれは醜い、だから悪だ」というレッテルを貼って終わりである。
 レッテルを貼る人間は、省力型で効率的ではあるが、そこから先に進まないのだとすれば、単なる愚者だ。
 なぜ醜いのか、なぜ醜いと自分が感じるのか。それが大事なことだろう。
 もしかしたらその醜さは、単に外界に投影された己自身の心に対する憎しみかもしれないのだから。
 
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 なぜ高い場所をそこまで優位とし、低い場所をそこまで劣位とするか。
 それはその人の感覚だからとしか言いようがない。
 だいたい過去の生い立ちによるものだけれど、それを分析したり解析して理解してもらうのは僕の仕事ではないし、僕のするべき事でもない。(僕がしてはいけないこと、ではないが)
 もちろん、僕にしたって自身の生い立ちによって「高位を優位とする」ことを知識として理解していても、体感することがほとんどできない(まったくできないわけではないが、することに意味を感じず、それをした結果はだいたいろくなものではない)のではあるが。
 
 僕には劣等感がほとんどまったくといっていいほど、ない。
 それは同時に、優越感がまったくないことでもある。
 それらを(必ずセットになるので)持っていることのヨロコビも分からないではないが、少々病的になってしまう傾向が強いのではないかと、周囲を見回していて、思う。
 
 
 
 
 
 
 

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